マナンの競馬
ソナムが居るのはマナンの町のメインストリートだった。周囲には地元の人達が多く集まっていて、欧米人の観光客の姿もチラホラ見える。
マナンの町の中央にある白い仏塔がスタート地点のようで、そこから十数騎のチベット馬が東へ向かって出走していった。騎士は地元のオッチャンや若者で、チベット服に身を包んで着飾っている。若い人の中には普段着のままで騎乗しているのも居るようだが。
ゴパルが興味深い顔をしてソナムに話しかけた。
「初めて見ます。こういう風に走っていくんですね。競馬というよりは、馬のマラソンという感じかな?」
ソナムが人混みを避けながら笑って答えた。
「競馬場でグルグル走り回るヤツではないですね。空港町を越えた先にあるピサンまで行って、そこで折り返してマナンまで戻ってくるルートです。長距離組は、さらに向こうのチャーメまで走りますよ」
チベット馬は小柄なのだが、山道でも平気で走破する。平地であれば時速六十キロで走っていくので、沿道の観客から見るとかなりの迫力がある。かの昔に、モンゴル帝国の騎馬隊が使っていた馬の仲間だ。
カルパナは馬よりもソバ畑に注意が向いている様子である。
「ちょうどソバの花盛りですね。小雨の天気で残念ですが、晴れると映えそう」
マナンの町は丘の上にあり、周囲を段々畑で囲まれている。
この時期はソバの花が一斉に咲いていて、マナンの町が赤やピンク色の花の絨毯で囲まれているようだ。他にもシコクビエや粟、小麦も栽培されているので、その緑色も美しい。
ゴパルが目を転じる。山肌には赤い枝葉の潅木が目立ち、松やモミの木の濃い緑色とのコントラストが見事だ。道端には黄色い花を咲かせた雑草が茂っているので、思っていた以上に色鮮やかである。
(雨期直前にマナンへ行った時は、西部劇の舞台みたいで殺風景な景色だったんだけどなあ。雨が降るとかなり変わるんだね)
ソナムが米国からの観光客に英語で何か案内をしてから、テレビ電話に復帰した。
「すいません。高山病っぽい症状になった観光客が出て、病院の場所を教えてきました」
カルパナが心配そうな表情になる。
「標高が高いですものね。この小雨模様ですと飛行機やヘリも飛ばないでしょうし、十分に用心した方が良いと思います」
カルパナに素直に同意するゴパルだ。
「そうですね、カルパナさん。高山病には急性のものがありますし。観光客の人は無理をしない方が良いでしょうね」
マナンの標高は諸説あるのだが3500メートルちょっとだ。そのため高山病にかかったら、急いで低い場所へ移動する必要がある。
しかし、その低い場所はマナン周囲にはないので、チャーメまで下りないといけない。そのチャーメも標高は2600メートルちょっとなのだが。
幸い今は小型四駆便が運航しているので、移動が楽になっている。ゴパルがよく見ると、マナンの白い仏塔の周囲には緊急搬送用のジプシーが何台か待機していた。白地に赤い十字の小旗を指しているが、別に赤十字との関係はない。
馬が出走していったので、次の出走まで暇になったようだ。観客がレストランや喫茶店、居酒屋に談笑しながら入っていく。ソナムも一息ついたようで、ようやく本題に入った。
「お待たせしました。チャーメのリンゴ農家の様子を映した写真を送りますね。どこも概ね良好ですよ」
写真を見たカルパナが真面目な表情でうなずく。
「はい。順調そうですね。モモシンクイガ対策で袋掛けを徹底してください。面倒な作業ですけれどね」
ゴパルは写真を見ても、あまりよく分からなかったようだ。小首をかしげている。
「さすがカルパナさんですね。私には、何がどう良いのか、あまり分かりません」
ソナムが肩をすくめながら笑った。
「まあ、そういうものですよ。KLの培養ですが、チャーメの私の家の納屋で本格的に始めました。光合成細菌も箱が完成次第、培養を始める予定ですよ」
愛想笑いを浮かべながら、目を泳がせているゴパルだ。
「ナルホド、ソウデスカー。チャーメって空港町から離れているんですか?」
ソナムがカウボーイハットをポンと叩いて答えた。
「バイクならすぐに着きますよ。マナンよりも、ちょっと遠いくらいです」
こういう時のネパール人のセリフは基本的に信用できないのが常識である。遠いのだろうなあ……と虚ろな目をするゴパルであった。
その後は電波状態が悪くなるまで雑談をして過ごした三人である。新ジャガイモの収穫時期だそうで、サビーナの指導で生まれた料理が、欧米からの観光客に人気だという話をしたりしている。
そうこうする内に、テレビ電話が不通になった。カルパナとソナムの顔が画面から消える。準天頂衛星の位置が悪くなったのだろう。
テレビ電話のアプリを終了させて、低温蔵を見るゴパルだ。
「マナンかあ……何とかして、私以外の人に担当してもらわないといけないなあ」
(KL製造をしている首都の会社は、普及員を雇っているはずだよね。その線で工作をしてみようかな……)
等と企んでいると、ダナとアルビンがやって来た。露骨に落胆しているダナの表情を見て、何となく察したゴパルである。
「登山道の復旧に目途が立ちましたか? アルビンさん」
アルビンがにこやかに微笑んだ。
「復旧工事を皆で手伝う事になりました。人手は多い方が良いですからね。ゴパルの旦那もやってみますか? 運動不足の解消になりますよ」
本来であれば、こういう土砂崩れの復旧工事には専門の業者が行い、事故に備えて保険を色々とかけて作業するものである。二次災害が起きて、それに巻き込まれる危険性があるためだ。
ゴパルが肩をすくめて、ダナに顔を向けた。
「では、低温蔵の仕事はダナ君に任せるよ。私はちょいと行って手伝ってくるね」




