低温蔵
低温蔵ではゴパルの土産も加わって、さらに忙しくなってきていた。スルヤが当番だったのだが、大いに不満顔をして作業をしている。のんびりした動きなのだが、どことなく悲壮感が漂っているような。
「ほら、僕の予想通りだったじゃないですか。仕事が増えるばかりですよ。僕の博士号が遠のいていくううう……」
ゴパルも作業をしながら平謝りしている。
「本当に済まないね。クシュ教授やラビン協会長さん達が色々と企てているんだよ。困ったもんだ」
ゴパルが今作業しているのは、紅茶を使ったリキュールと醸造酒つくりだ。材料はスリランカ産とリテパニ酪農産の紅茶である。どちらも糖を加えて発酵を補助している。
醸造酒の方はポカラの米とスリランカ米を使い、これをクモノスカビを使い発酵させている。発酵がある程度進んだ頃に、粉砕した紅茶葉と発酵補助用の糖を添加するという手順だ。
コウジカビを使えば日本酒ぽくなるのだが、ネパールのどぶろくはクモノスカビを使っているのでこの方式を採用している。
リキュールには酵母菌を複数種類添加して発酵を促しているようだ。
どちらも実験なので、仕込んでいる量は二十リットルほどである。ゴパルが仕込み終えたポリタンクに封をして、軽くため息をついた。
「酒蔵が充実する一方だな……」
リキュールつくりは、バクタプール酒造のカマル社長やツクチェのマハビル社長も乗り気なので、おろそかにできない。
スルヤは別の作業をしていた。強力隊によって運び上げられてきた種子の保管だ。
「こちらは急速に種子銀行になりつつありますよ、ゴパルさん。元々、種子を保存する設計ではなかったのに。おかげで保管場所の環境設定に苦労しっぱなしです」
ネパールでは、育種学のゴビンダ教授による強力な後押しにより、地方の農業開発局の管轄で地元作物の種子保存が進められているらしい。実行するのは下部組織の種子銀行だ。
保存されているのは、主にその地方で栽培されている在来種の豆、ウリ、米である。米では香り米と呼ばれる品種を重点的に保存しているようだ。
これまで農家は園芸業者から種子を購入していたのだが、この金銭的な負担を軽くする事が目的である。農家の規模にも左右されるのだが、専業農家では年間五千円ほどの節減が期待できる試算だ。
仕組みとしては、農家が自作用に栽培していた農作物の種子を種子銀行へ預ける。これらは他の農家が無料で配給を受けて栽培できる。種子銀行は商売も行い、種子を他の地方の農家や国外に販売して利益を得るという形だ。
地方によって参加している農家数がかなり違うのだが、ここポカラでは九百軒の地元農家が参加する予定で、千二百種の在来種を保管管理する計画である。その中で重要な品種については、ここ低温蔵でも保管する運びになりつつあった。
スルヤが小さくため息をつく。
「種子の保管って、温度や湿度に注意しないといけませんからねえ。停電が起こってしまうと大変です。その点、この低温蔵では電力の心配はありませんしね」
実際、ゴパルがセヌワで採取した青カビは、首都の微生物学研究室で保管していたのだが、停電が起きてダメになってしまっている。
ゴパルが質問した。
「まあそうだよね。今保管している種子では、どれが重要なんだい?」
スルヤが少し考えてから、とある種モミを指さした。
「ブトワルの農家が預けた、バスマティ系統のこの香り米かな。昔の品種なので強い香りを出すそうですよ」
この他には、米粉パンやパスタ向けに育種中の米の新品種候補も保管していると、スルヤがリストを見ながら話してくれた。
「今はゲノム編集が簡単にできるので、新品種の開発も早いですね。米粉パン向け品種とかは、間違いなくラビン協会長の要望でしょうし」
ただ、いくらゲノム編集済みの種子でも、実際に栽培して収穫し、試食してみないと分からない事が多い。
この低温蔵で保管しているのは、その栽培試験の順番待ちをしている種子だ。同時に半年ごとの発芽率も調べる予定らしい。
小麦でも同様だ。パンや麺、ケーキ等への用途に適した品種の育種が進められている。それらの種子も、この低温蔵で保管する事になるらしい。
ゴパルがスルヤから話を聞いて、軽いジト目になった。
「種子銀行の役目もする事になるのは面倒だよね。重要な仕事なのは理解しているんだけど」
そこへ、民宿ナングロのアルビンがニコニコしながら低温蔵へ入って来た。早くも小さな毛糸の帽子を被っている。今後は次第に大きなサイズに変わっていくのだろう。
「ほんの少量ですが、香り米が炊きあがりましたよ。ソバとシコクビエのディーロも出来上がったので、チヤ休憩のついでに試食していってください」
スルヤがニッコリとゴパルに微笑んだ。
「試食して評価するのも仕事のうちです。作業は一休みして、冷めないうちに食べに行きましょう、ゴパルさん」
ゴパルが即答してうなずいた。
「そうだね。冷めると正しい評価が下せないよね。行こう行こう」
種子銀行について補足情報:
日本の農研のプレスリリースですと、日本のジーンバンクではマイナス摂氏1度、湿度30%の暗所で作物の種子を長期保存しています。
この条件下では、保存開始時点の発芽率の85%以上を維持できる期間(推定種子寿命。年)は以下のようになります。
東南アジア在来稲(24.9)、小麦(20.5)、粟(17.5)、ソバ(68.1)、ソルガム(25.5)、トウモロコシ(21.2)、大豆(15.8)、キュウリ(127.1)、トマト(31.3)、ナス(36.2)、メロン(59.3)、ギニアグラス(8.4)
ネパールで種子銀行をする際の参考になるかも




