日本料理店 御柱
ゴパルがタクシーで向かった先は日本料理店だった。店の前に到着して、タクシーの運転手に料金を支払う。
(ヤマさんは日本人だし、こういう店になるよね)
空模様が怪しくなってきて、上空でピカピカと稲光が走り始めた。まだ雷雲は遠いようで、音は聞こえてこない。
(帰る頃には雨かな。一応は傘を持ってきているけど、どうか降りませんように)
この日本料理店のある場所は未舗装の土道が多い。そのため、雨が降ると泥沼になってしまう。革靴とスラックスに長袖シャツの姿なので、できれば汚れたくないのだろう。
店内に入ると、日本語らしき会話が耳に入って来た。店内にはカウンター席とテーブル席があるのだが、どこもほぼ満席で、そのほとんどが日本人のようだ。
ネパール人も居るが、ネワール族やタマン族ばかりである。そして、当然のようにビールや日本酒を飲んで談笑していた。なお、店の場所のせいか女性客は少ないようだ。
(酒飲み階級って感じだなあ。そういえば、二十四時間営業の中華料理屋でも酒瓶がテーブルの上に並んでいたっけ)
いつものピザ屋でも、欧米からの観光客やグルン族を中心にしてビールやワインを飲んでいる客は居るのだが、飲む量はそれほど多くない。ここのようにビール瓶や酒瓶、ワイン瓶がテーブルの隅に林立するような風景ではない。
そして、支援隊員とおぼしき若い男達が酔っぱらって騒いでいるのが見えた。彼らの定位置のようで、他の一般客から隔離された場所に固まって座っている。
日本料理店とはいっても実質は居酒屋のような雰囲気だ。店内に入ってすぐ目に入るガラス扉の大きな保冷庫の中には、日本酒や焼酎、ジュースの大瓶がズラリと並んでいる。
前回と違うのは、その酒瓶の中にバクタプール酒造産の赤白ワインが何本か混じっている事だろうか。少し嬉しくなるゴパルである。
すぐに日本人の客席スタッフがやって来て、ゴパルに合掌して挨拶をしてきた。
「コンニチワ。予約シテマスカ?」
片言のネパール語で聞いてくる。
(ああ、そういえば、金欠になった日本人旅行者を雇っているとか、石さんが言っていたっけ)
ゴパルも合掌して挨拶を返し、目元を和らげた。
「ネパール語が上手ですね。日本人のヤマさんが来ているはずですので、そこへ案内してくださいな」
すぐにヤマとクシュ教授がゴパルを見つけて呼びかけてきた。早くも何か酒らしきものを飲んでいるようだ。
「いらっしゃい、ゴパルさん。こちらへどうぞ」
「時間前に来るとは優秀じゃないか、ゴパル助手。てっきりネパール時間でやって来ると思ってたよ」
どこの国にもあるのだが、定刻よりも遅れてしまう行動を『何とか時間』と呼ぶ傾向がある。ネパール時間の場合は、翌日にずれ込む場合もあるので注意が必要だ。
ゴパルが日本人の客席スタッフに礼を述べてから、ヤマとクシュ教授に合掌して挨拶をした。
「こんばんは。あいにく自宅で夕食を終えてしまいましたので、あまり多くは食べたり飲んだりできません。すいません」
残念そうに笑うクシュ教授だ。彼も革靴にスラックス、長袖シャツの『おしゃれ』な姿である。ゴパルの目には、とてもそうとは見えないのだが。
「おお……運が悪いな、ゴパル助手。ヤマ君がフランス産の鴨を取り寄せたというのに。仕方がないな、羽でも食っていなさい」
ジト目になりながら席に座るゴパルである。今回は窓際ではなくて、厨房に近い場所にあるテーブル席だった。しかし窓が大きいので、夜景を眺めるには支障ない。
板張りの床や、細竹で装飾されている土壁を眺める。ブータンやマナンも板張り床に土壁だったのだが、雰囲気は全然違うものなんだなあ……と思う。
テーブルは重厚なつくりの木製で、テーブルクロスはかかっていない。
(この点は共通しているのかな?)
まあ、ネパールの大衆食堂でもテーブルクロスは使ったりしていないのだが。とりあえず料理や酒はヤマに一任するゴパルである。
日本式に『とりあえずビール』となり、中ジョッキに注がれた生ビールを受け取った。それを掲げて三人で乾杯する。
「カンパーイ」
ネパールでは乾杯の習慣があまりないので、ここは日本式の日本語で行った。一口飲んで目を輝かせるゴパルである。
「うわ。美味しいですね、この生ビール。日本の酒造メーカーのものですか?」
ヤマが軽く肩をすくめて笑った。
「そうしたい所ですが、インド産ですよ。会員向けに限定生産している酒造メーカーがありましてね。そこの会員になって供給してもらっていると石さんが言っていました」
ネパールもそうなのだが、インドでは州によっては酒類を厳しく規制している。そのため、一般小売で酒類を販売するのではなく、こうして会員制で販売する所もあるようだ。
クシュ教授が生ビールを飲みながら淡々とした口調で告げた。
「会員制だと、ビールの風味についての文句が酒造所に直接届くのでね。インド人好みの風味になりやすいんだよ。ヤマ君には、ちょいとキツイみたいだな」
ヤマが口と眉をへの字に曲げて苦笑した。
「ですね。日本のビールとは少し香りも違うかな。でも美味しいと思いますよ」
そう言ってから、少し考えて肩をすくめた。
「……タイのビールみたいな風味であれば大歓迎なんですけれどね」
タイのビールも多様な風味だ。ヤマが気に入ったのは麦芽だけを使った獅子印のビールらしい。象印や虎印は甘口なので苦手だと話してくれた。ゴパルとクシュ教授が顔を見合わせて同意する。
「ですよね。タイの甘いビールは私も苦手です」
ゴパルに続いてクシュ教授もしみじみとした表情でうなずいた。
「タイ人には甘党が多いのでな。料理に砂糖をかける趣味のヤツが多すぎる。食事中にチソを飲むのも考え物だよ」
チソとはネパール語で『冷たい炭酸飲料』の総称である。
ヤマが気恥ずかしそうにバーコード頭をかいた。
「実は先日まで、タイの首都バンコクで病院に入院していまして……」
ポカラの水道管網の状況を調査していたそうなのだが、田舎に行った際に吸血ヒルに血を吸われてしまったと話してくれた。ポカラの水道は、田舎では週に一回しか水がやって来ないので、水道管の破損や汚れが深刻らしい。
「気がついたら靴下が血まみれになっていました。その時点で仕事を止めて、治療をしておけば良かったのですが……」
ゴパルが気軽な口調で口を挟んだ。
「靴下を通り抜けるような吸血ヒルは小さいので、そんなに大きな傷口にはなりませんよ。紙切れか何かを傷口に貼っておけば大丈夫です」
クシュ教授がツッコミを入れた。
「現地民のやり方を外国人に当てはめるのは、往々にして良くないものだよ、ゴパル助手。日本とポカラとでは菌の種類もそれなりに異なるからね」
ヤマがバーコード頭をかいて恐縮した。おかげでバーコードがクチャクチャになっている。
「油断は禁物ですね。その後、細菌に感染してしまいました。破傷風ではなかったのが幸いでしたが、おかげでバンコクまで緊急搬送されてしまいましたよ」
ネパールにも高度な医療ができる病院があるのだが、ヤマのグループはバンコクに行く事になっているらしい。
同情して聞いているゴパルに、クシュ教授が朗らかな笑みを浮かべながら告げた。
「バンコクには日本人が多く住んでいるそうでね。ヤマ君の知人が、回復祝いに鴨を届けてくれたそうなんだよ」
タイでは鴨料理が多いので、入手が容易なのかもしれないな……と想像するゴパルである。実際は、合鴨なのだが。クシュ教授がゴパルの反応を楽しみながら話を続けた。
「ヤマ君だけでは食べきれないし、かといって援助隊員や水道工事の仕事仲間を呼ぶと全く足りない。そこで、我々にお呼びがかかったという訳だ」
知人が届けてくれたのは一羽の鴨だけだったので、なるほどと納得するゴパルだ。それでも多すぎるので、ここの板長の石さんに残りの肉を寄付する事になっているらしい。
(私も夕食を食べたばかりだし、一羽まるごとは量が多いよね)




