バニラとナツメグ園
まだ夕方には時間があるので、ゴパルを乗せて別の場所へ走る事にしたラマヤナカであった。
「明日の予定を、一つ先に片づけてしまいましょう」
そう言って、三十分ほど運転して到着したのは緩やかな丘陵地だった。この辺りは人家が少なく、背の高い熱帯雨林で覆われている。
農園の門を通って中へ入ってから、ゴパルが小首をかしげてラマヤナカに質問した。
「ここはどんな農園なんですか?」
ラマヤナカがハンドルを握りながら、視線を農園の木々に投げた。
「ナツメグですね。その奥で支柱に支えられている植物はバニラです。どちらも熱帯で育つので知らない人が多いんですよ」
ゴパルが感心して、改めて窓から外を眺めた。
「これがそうなんですか。初めて見ました」
ナツメグは木なのだが、バニラはランの一種だ。そのためバニラが巻き付くための支柱が組まれていた。その支柱はそれほど背が高くなくて、百五十センチほどである。ココナツがそばに植えられていて日陰の役目を果たしていた。
すぐに農園事務所に到着して、そこの社長と挨拶を交わす。社長が流暢な英語でゴパルに謝った。
彼もラマナヤカと同じくらいに肌が黒い。ただ、アメリカやアフリカの黒人と違う点は顔の彫りが深い事だろうか。
「すいませんね。バニラは残念ながらまだ実が熟していません。緑色のままです。二ヶ月くらいすれば熟してくるので収穫できるんですけれどね」
ゴパルが恐縮する。
「急に決まった出張でしたので、思慮が足らなかったのは私の方です。すいません。バニラやナツメグについては詳しくありませんので、簡単に栽培方法を説明してもらえませんか?」
快く了解する社長だ。まず最初にバニラ園にゴパルとラマヤナカを案内した。
「バニラはランの仲間ですので、KLの使い方もランに似ると思います。遠慮なく指摘してください、ゴパル先生」
先ほど車の中から見た通り、ココナツの林の中で支柱を組んでバニラを栽培していた。ちょうどココナツによって、木漏れ日程度の明るい日陰になっている。
支柱の上には白い遮光ネットが張られていて、噴霧装置も付いている。遮光ネットの遮光率は四十五%という話だった。
「十二月からは散水や噴霧を中止します。これが引き金になって、翌年の一月から徐々に花が咲き始めるんですよ」
ここで社長が述べている暦は西暦太陽暦の事だ。その社長が軽く肩をすくめて笑った。
「ですが、バニラの実をつけてもらうには、花に人工授粉を施す必要があるんですよ。これが実に重労働でしてね。色々工夫して、今の支柱栽培に落ち着きました」
スリランカはバニラの原産地ではない。そのためバニラの受粉を行う虫が居ない。虫の代わりに人が行う必要があるのだ。
支柱の高さは百五十センチほどなので、バニラの樹高は百六十センチまでに留まっている。それ以降は、水平方向に追加延長した支柱に誘導していた。確かにこの高さであれば、人工授粉の作業も少しは楽になる。
ゴパルがバニラの葉や茎を眺めていく。もう花は全て散っていて、緑色のインゲン豆のようなバニラの実が実っている。これがさらに大きくなり、先端部分が黄色に変われば収穫適期だ。
「見た所では病害虫の発生は起きていませんね。良い栽培管理をしている証拠です。ランの仲間ですので、KLを慎重に使った方が良いと思います」
ランは一般に微生物を使役する性質がある。その使役システムをKLが助けてくれれば良いのだが、反対に破壊する恐れもある。そのため、大量にKLを使うのは避けるべきだろう。
ゴパルが社長に、少量ずつ様子を見ながら試してみるように提案した。
素直に了解する社長だ。どうやら予習していた様子である。恐らくは、チャパコットのラン栽培をしているハウスの作業を勉強したのだろう。
「分かりました。その方向で試してみましょう。光合成細菌も使ってみる予定ですよ」
ゴパルが空を見上げて軽く腕組みをする。
「うーん……湿度が高いので、箱を木製にするとキノコだらけになってしまいそうですね。強化プラスチック製の箱にした方が良いかもしれません」
メモをしている社長とラマナヤカに、ちょっと聞いてみた。
「このバニラですが、製品にするにはどうするんですか? 確か発酵させるのですよね」
メモを取り終えた社長が気楽な口調で肯定した。
「そうですね。バニラは収穫しただけではただの豆です。発酵と乾燥をさせる事で、バニラの香りを出すんですよ。その方法はバニラ園の最重要秘密ですね。申し訳ありませんが、ゴパル先生やラマヤナカ副支配人さんにも見せる事はできません」
なるほどと納得するゴパルだ。
「バニラって単価が高いですからねえ……KLと光合成細菌も発酵に使われている菌です。添加すると発酵状態が良くなるかもしれませんよ」
今度は社長が腕組みをして感心した。
「なるほど。そう言われればそうですね。分かりました、試しに使ってみますよ」
続いてバニラ園の隣に広がるナツメグ園に案内された。ナツメグは果樹なので、土ボカシや生ゴミ液肥、光合成細菌やKLで中和したもみ殻燻炭の埋設といった提案をするゴパルだ。
「ランと違って丈夫ですから、少々過剰に施肥しても問題ないはずですよ」
社長もさらに気楽な表情と口調になって答えた。
「分かりました。近くに幾つか村がありますので、そこから生ゴミを調達する事にしますよ。スリランカも国内で肥料を作っていませんから、自前で作る事ができるようになると経営が安定します」
ナツメグは香辛料として有名だが、果樹なので少しだが果肉がある。赤いネット状の果肉でジャムにしたりする。香りは香辛料にする種よりも繊細だ。
事務所に戻ると、その果肉をミキサーで潰してシロップと水を加えたジュースが出てきた。ゴパルが飲んでみて、驚いた表情になる。
「へえ……ナツメグの香りがする赤いジュースですか。初めて飲みましたが、上品な風味ですね」
ラマヤナカと社長は飲み慣れている様子だ。ゴパルの反応を見て楽しんでいる。
「ちょっとした特産品ですね。ナツメグの果実から少ししか取れないので輸出は難しいかな。ここの売店や近くの村で売っていますよ」
ナツメグの果実は、香辛料として使う種を分厚い果皮が包んでいる。網状の果肉は、種と種皮の隙間に少しあるだけだ。量という面では、種よりも少ない。
早速ポカラ土産として注文するゴパルであった。紙パック入りのジュースなので、持ち運びも簡単なようである。
社長からナツメグ果肉の醸造酒や蒸留酒も勧められたが、これは遠慮する事にしたゴパルであった。酒飲みなのはレカとグルン族の連中くらいなので、買って戻ってもあまり喜ばれない。
バニラ園を出て、一路ベントタへ向かうゴパルとラマヤナカだ。ゴパルがナツメグジュースの詰め合わせパックを手にして喜んでいる。
「ありがとうございました。これで最低限の土産が確保できましたよ」
ラマヤナカがハンドルを握りながら穏やかに微笑んだ。
「それは良かった。バニラとナツメグで良い効果が出ると良いですね。私達ベントタのホテル協会も期待していますよ」




