クシュ教授からのチャット
ABCへ戻ってゴパルが低温蔵の仕事をしていると、スマホにチャットが届いた。液晶画面を見て顔を曇らせるゴパルだ。
「うわ……クシュ教授からだ。嫌な予感がするなあ」
無視するわけにもいかないので、渋々チャットを開く。
低温蔵ではラメシュが当番をしていたのだが、作業の手を休めてゴパルに聞いた。今は、ブータンから送られてきた試験管内の菌やキノコ片を培養して、成功したものを保存している。
「ゴパルさん、どんな内容ですか?」
ゴパルが肩を落として力なく笑った。
「マナンとスリランカへの出張が決まってしまったよ」
マナンはアンナプルナ連峰の北側にあるチベット系の人達が住む町だ。
今回はゴパルだけでなく、ラビン協会長やサマリ協会長、カルパナ、レカ、サビーナまで一緒に日帰りで行くらしい。ゴパルが首をかしげていると、チヤを差し入れに低温蔵へ入ってきたアルビンが説明してくれた。今はアンナプルナ内院でも一番暖かい時期なので、帽子を被っていない。
「ああー……二か月後にマナンで競馬大会があるんですよ。その準備じゃないですかね」
ゴパルとラメシュが揃って首をかしげた。ラメシュが完全に仕事の手を休めてアルビンに聞く。
「競馬って……マナンに競馬場がありましたっけ?」
アルビンがチヤをラメシュに渡してニッコリと笑った。
「ありませんよ。マナンとチャーメを往復するチベット馬の競争です。普通の道を疾走していくので、それなりに見ていて楽しいですよ」
なるほどと理解したラメシュとゴパルだ。ゴパルがもう一つ聞いた。
「でも、雨期の真っ最中に開催するんですね。飛行機とかもう飛んでいないのでは?」
アルビンがゴパルにもチヤを渡して、素直にうなずいた。
「ですね。陸路で苦労してマナンまで行かないといけません。見物するにはハードルが高いかな」
ポカラからマナンまでは、車でも丸二日はかかる。
「ですけど、ポカラやジョムソンで関連イベントでもするんでしょう。この時期はただでさえ観光客が少ないですからね、イベントは多いに越した事はありませんよ」
マナン出張については何とか理解したゴパルであったが、スリランカ出張はそうでもなかった様子である。ジト目になってチヤをすすりながらクシュ教授の文句を垂れている。
これについては、ラメシュが自身のスマホでダナやスルヤからの情報を見ながら推測してくれた。
「この間、有機農業団体の南アジア地区の交流会があったじゃないですか。それにスリランカから一人参加していますね。彼とクシュ教授が会って何か企んだのでは?」
ゴパルが思い出してみると、その時に二人が会って何やら話していた記憶が引っかかった。
「あれか……確かに挨拶だけにしては長時間話しているなあ、と思ったよ」
その時の情報をゴパルが自身のスマホを操作してファイルを探してみると、すぐに見つかった。
「ええと……ベントタ市のリゾートホテル、ベントタ・コーストビューリゾートホテルの副支配人をしているラマヤナカさん……だね。ああ、この人には会った事があるよ」
ホテル内の仕事については、ゴパルは専門外である。接客とかは不向きだ。
(という事は、ホテルへ食材を提供している農園の技術指導かな。熱帯の作物とか知らないんだけど。カルパナさんに聞いて勉強するしかないか)
バナナやパパイヤ、紅茶やコーヒーのように亜熱帯と共通する作物もあるのだが、そうではないものも多い。
スリランカ出張は二週間後なので、まずはマナン出張に集中する事にしたゴパルであった。チヤを飲み終えて作業を再開したラメシュに謝る。
「すまないね、ラメシュ君。今から下山する事になってしまった。低温蔵の仕事は一人でも大丈夫かな?」
ラメシュが少し考えてから素っ気なく答えた。
「明日には全ての試験管の培養結果が出ますから、保存可能な試料を選ぶだけですね。私だけでも半日あれば終わると思います」
そう言いながら、少し考える仕草をした。
「他は酒とチーズとカビの生えた肉の世話だけですね。何とかなるでしょう。応援は不要かな」
ゴパルが気遣った。
「無理はしなくて構わないからね、ラメシュ君。博士課程なんだし」
「了解です、ゴパルさん」
ゴパルが空になったグラスをアルビンに返した。
「アルビンさん。マナンって何か土産になりそうなモノってありますか? ジョムソンのアンモナイトの化石みたいな」
アルビンが腕組みをして考えて、肩をすくめて笑った。
「ないっすね。干したリンゴの輪切りくらいじゃないかな」
民宿ナングロで軽食を食べた後で、すぐに荷物をリュックサックに詰めて下山していくゴパルだ。
アルビンとラメシュが見送る。ゴパルの後ろ姿を見ながら、チヤをすすっているアルビンが同情した。
「行ったり来たりと大変ですね。強力隊に転職できますよ」
ラメシュも二杯目のチヤをすすりながら同意する。
「ですよねー。でもまあ、そろそろ給料が口座に振り込まれるそうですから、少しは元気になると思いますよ。今回からは危険手当が増額されているそうです。私達のような博士課程には無縁ですけどね」
博士課程は学生扱いなので大学から給料は出ない。ただ、低温蔵の事業費からいくらか出してもらっているようだが。
その日はジヌーまで下りる時間がなかったので、セヌワに泊まるゴパルであった。
ちょうどカルナが居たので、マナン行きの話をする。ジト目になるカルナだ。腰に両手を当ててため息をついた。
「ラメシュ先生を一人残してマナン観光かよ。ブータン旅行で味をしめたな、この山羊め」
ゴパルがとりあえず弁解する。
「ブータンもマナンも次回のスリランカも私が決めたわけではありませんよ。上官のクシュ教授が……」
カルナが両手を振って話を遮った。
「分かった、分かった。ちょっと言い過ぎたわね、ごめんごめん。いきさつは知ってるから、ゴパル先生が悪くないのは知ってるわよ。ちょっとラメシュ先生が可哀想に思ったから、文句を言っただけ」
そう言ってから吊り目を少し和らげた。
「キノコ狩りの時期が終わったから、私が暇な時に低温蔵へ行って手伝ってあげるわね」
了解するゴパルだ。
「助かります。報酬は低温蔵の事業費から何とか捻出してみますね。クシュ教授に頼めば何とかしてくれるでしょう」
カルナがドヤ顔で微笑んだ。
「任せなさい。仕事内容は前に行った時に見て覚えたから余裕よ」
早速ゴパルがスマホを取り出して、クシュ教授宛にカルナのバイト申請を許可してもらうように打診する。続いてラメシュにも経緯を伝えた。
「これでよし。今日中にクシュ教授から返事が届くと思いますよ。報酬額は交渉してみてください。現状では、大学の作業員バイトの報酬と同じくらいになると思います」
了解したカルナにゴパルが質問した。
「キノコ狩りですが、むしろ雨期に入ってからの方がたくさん採れませんか?」
カルナが軽く肩をすくめて肯定的に首を振った。
「まあね。でも雨期に入ると農作業が忙しくなるのよ。セヌワだとシコクビエとかアワやジャガイモを植えるし、チョムロンやジヌーだと田植えだしね」
なるほどと納得するゴパルだ。カトマンズ盆地やカブレでも雨期から農作業が忙しくなる。
カルナが少し残念そうな仕草を見せた。
「それと、雨期が始まると高地で冬虫夏草のキノコが生えてくるのよね。お金になるから殺伐とした雰囲気になって、安心してキノコ狩りができなくなるのよ」
冬虫夏草は幼虫にキノコが寄生して生えたものだ。漢方薬の原料として中国で高く売れる。この幼虫は森林限界の上に広がる草原に多いので、冬虫夏草の採集場所もその辺りになる。
なので、厳密にはカルナ達がキノコ狩りをしている森の中とは別環境だ。それでも何かのとばっちりを受けるのだろう。
この冬虫夏草は雨期の間じゅう採れるので、その間は高地には行かずにセヌワやジヌー近くの森に生えているキノコ狩りをするに留まるという話だった。
感心して聞くゴパルだ。
「野生キノコ狩りも色々と大変なんですね。私はキノコ採集ではカトマンズ盆地やカブレ近郊ばかりに行っていましたので、冬虫夏草には詳しくないんですよ。アンナプルナ街道でもセヌワの周辺でキノコを採る程度ですし」
カルナが気楽な表情になってうなずく。
「森の中で迷うような人には、集落の近くで菌集めやキノコ狩りをしてもらった方が、私としても助かるわね。マナンへ行くんだったら、ちょうど季節の野生キノコが生えている頃じゃないかな。知り合いが居るから、ちょっと聞いてみてあげる」
感謝するゴパルであった。
「ありがとうございます、カルナさん。しかし、知り合いが多いんですね。マナンにも居るとは」
カルナがニッコリと笑った。
「まあね。民宿つながりで色々あるのよ」




