ご挨拶
翌朝は最初に、王城に隣接している農政省の建物に行くゴパルであった。サムテンがピックアップトラックで民宿まで迎えに来てくれて、それに乗って向かう。
サムテンの服装は昨日とは違って、パリッとした灰色のゴだ。正確にはやや青みがかった灰色だろうか。肩には白くて薄いストールをかけている。
ゴパルはネクタイを締めて、白い長袖シャツにスラックス、背広のジャケットに黒の革靴だ。頭をかいて微妙な表情のゴパルである。
「どうも、こういう服装は苦手ですね。リュックサックに入れても大丈夫な服ですが、それでも荷物になりますし」
サムテンが同情しながら笑った。ブータンの大通りを走っていくのだが、建物の造りはチベット様式のものばかりだ。行き交う車やバイクも結構多くて、交差点付近ではちょっとした渋滞になっている。
サムテンが軽く肩をすくめて話しかけてきた。
「昔は、信号機が無かったんですよ。交差点には警官が立っていて手信号で交通整理をしていたのですが、さすがに交通量が増えましてね」
歩道を歩いている人達も民族衣装を着ている。ネパール系の顔立ちをした人も居て、彼らも着ている。
ただし、インド人は半袖シャツにスボン、サンダルの気楽な服装が多いようだが。なので、インド人がよく目立っている。顔立ちを見ると、北インドやベンガル人がほとんどだ。
ゴパルが視線をサムテンに戻して、肯定的に首を振った。
「ネパールと違って、電気自動車ばかりですね。排気ガス汚染で困っていないのは素敵な事ですよ」
王城はこの大通りの先にあった。見た目通りのチベット様式の城で白壁がまぶしい。この高い壁に城がぐるりと囲まれているため、城内の様子は外からでは見えない。ただ、チベット僧の姿が多く見えるのが印象的だ。他にはゴやキラ姿の公務員ばかりである。
その王城には行かずに、隣接する農政省の役場へ向かう。この建物は一階建ての平屋だった。ゴパルが宿泊していた民宿よりも質素な造りである。
駐車場にピックアップトラックを停めたサムテンが、ゴパルを案内した。
「では、偉い人に挨拶しに行きましょうか」
役場の中も質素な造りで、歩くと板敷きの床がギシギシ音を立てる。それぞれの部署は薄いベニヤ板の壁で区切られていた。その割には静かだなあ……と感じるゴパルだ。
ゴパルをとある部署に案内して、サムテンがイスを差し出した。広さは四畳半くらいで、事務机が一つある。他には誰も居ないのだが、特に気にしていない様子のサムテンだ。
「ちょっと待っていてくださいね。上司に知らせてきます」
部屋に一人残されたゴパルが、周囲を見回した。
ベニヤ板で囲まれた部屋なのだが、ちゃんとコンセントや天井照明がついている。窓には鉄格子がかけられていて、外を見ると駐車場だった。
(盗難事件が起きるのかな。でも、役場に入る時は警備員とか居なかったな)
それを言うと、バクタプール大学も似たような環境なのだが。
壁には、幅二メートルほどの大きなブータン地図が貼りつけてあった。それを見ていると、サムテンがニコニコしながら戻ってきた。
「お待たせしました、ゴパルさん。上司に挨拶してきましょう」
上司の部屋は別館にあった。それでも似たような平屋建てだが。違う点は、床にチベット様式の大きな絨毯が敷かれている事と、国王陛下とチベット僧の偉い人の写真が飾られている事くらいだろうか。
大臣や議員は別の用事で不在だという事で、事務方の次官補が応対してくれた。彼の顔つきがネパール人なので少し意外に思うゴパルだ。
次官補が気楽な表情で微笑んで、合掌して挨拶をした。
「ようこそブータンへ。王立種苗センター長を兼任している農政省次官補のケシャブ・ライと申します。バングラデシュ産のエリンギ種苗を持ってきてくださり、ありがとうございます」
ネパール語で語りかけてきたので、ゴパルがさらに驚いている。慌てて合掌して挨拶を返した。
「は、初めまして。ゴパル・スヌワールです。驚きました、ネパール語なんですね」
次官補がウインクしていたずらっぽく笑った。
年齢は五十代後半で、顔も四角いオッサンなのだが意外に可愛らしい。名前からしてライ族なので、ネパール系ブータン人である。
ライ族はネパール東部にも多く住んでいて一大勢力を形成している。この民族はグルン語のような独自言語を有していたのだが、今ではネパール語を話す人がほとんどだ。
「公式言語はゾンカ語ですが、内輪ではネパール語も使いますよ。今日はこれからプナカですね。じゃんじゃんサンプルを採取してきてください。食用ランの手配もつけておきました。現地で確認してみてください」
ゴパルが首を引っ込めて恐縮した。
「実は昨日、パロの水田地域で散々サンプル採取をやってしまいまして……調子に乗ると、今日中にプナカへ到着できなくなりかねませんので自重します」
その報告もサムテンから聞いていたようだ。明るく笑った。
「研究者はそうでないといけませんよ。気にせずに採取してください」
次官補は忙しい身のようで、挨拶を済ませるとサムテンにゴパルの面倒を見るように言いつけて、足早に部屋から出ていった。ゴパルとサムテンも部屋を出て駐車場へ向かう。
「サムテンさん、この服装では採取作業に不向きですので、宿に戻って着替えようと思うのですが……構いませんか?」
ゴパルは英語で聞いたのだが、サムテンが流暢なネパール語で笑って答えた。
「私もこの服装では、汚れると妻に叱られてしまいます。互いに着替えてから、民宿で落ち合いましょうか」
ゴパルが目を点にしている。
「サムテンさん……ネパール語も話せるんですか」
ニッコリと笑い続けるサムテンだ。
「詩を書くほど上手ではありませんけれどね。日常会話でしたら何とかなります」
ネパール人にはネパール語で詩を吟じるのを趣味とする人が多い。ゴパルは当然ながら下手くそである。
民宿に戻って作業に適した普段着に着替え、リュックサックを担いでチェックアウトするゴパルだ。
(背広やシャツも丸めて収納できるのって便利だよねえ……こんな素材を開発してくれた人に感謝しなくちゃね)
実は部屋にノミが居たので、ノミ除けスプレーを体に吹き付けてある。なお、この効果は半日程度しか続かない。
(プナカの民宿にもノミが居るだろうなあ……スプレーを持ってきていて正解だったよ)
ノミに刺されて吸血された所は、赤い発疹みたいになってかゆくなる。数十匹の集団で刺されると、かなりかゆい。捕まえてもなかなか潰れないので厄介だ。かゆさの程度は南京虫ほどではないのだが。
少し待っているとサムテンがヨレヨレのゴを着た姿でやって来た。これが作業着になるのだろう。
「お待たせしました。ではプナカへ向かいましょうか」




