坊主の噂話
翌朝早くセヌワを出発して山を下りていくゴパルだ。途中のジヌーで軽食を摂ってそのままナヤプルへ向かう。しかし、その先のシャウリバザールで茶店のオヤジに呼び止められてしまった。
「おーい、ゴパル先生。バスと小型四駆便はさっき出てしまったぞ。三十分ほどチヤ休憩していけ」
がっくりと肩を落とすゴパルであった。
「残念。間に合わなかったか」
仕方なく、その茶店に行ってチヤとクッキーを頼む。茶店のオヤジが前歯の抜けた顔でニッコリと笑った。
「ほいきた」
ゴパルが予約しているポカラ行きの小型四駆便の発車時刻までには、まだ時間的に余裕がある。予定ではナヤプルで食事を摂ってから、ジョムソンから走ってくる小型四駆便を待つつもりだったようだ。
(でもまあ三十分くらいなら許容範囲かな。早起きして下山して良かったよ。ナヤプルのヒラタケ栽培の記録は撮影できそうにもないけど)
ジヌーでも撮影していなかったのだが。後でクシュ教授に文句を言われる事になるのだろう。
茶店のオヤジがチヤとクッキーを出してきたので、受け取って代金を支払う。一口チヤをすすって、ほっと息をつくゴパルだ。
「はー……水牛乳のチヤは良いですね。ABCではずっと脱脂粉乳でした」
茶店のオヤジが歯抜け顔で笑った。
「氷河の隣じゃ、水牛は飼えないからね。軍の連中に盗賊の動向を聞かれたんだってな。奴らはそれで仕事をしたと勘違いしてるから困ったもんだ。盗賊はポカラの北東の森の中に潜んでいるって噂だから、しばらくはここまで来ないだろうよ」
そんな事まで知っているのかと驚いているゴパルだ。
「ポカラの北東ってなると、シクリスですかね。ガンドルンからは遠くなって良かった」
茶店のオヤジが意味深な笑みを浮かべて否定した。
「そこまで行ってないな。もっとポカラに近い場所みたいだぞ。アルバの辺りじゃないか」
アルバはポカラの北東に接する山間地である。
「盗賊もポカラのギャング団の下部組織だしな、ポカラからあまり離れると都合が悪いはずだ。まったくグルン族の若い連中には、血の気が多い奴が多くて困るわい」
茶店のオヤジはプン族なので、グルン族について容赦ない口ぶりだ。ゴパルも何となく同意する。
(あー……それで盗賊の行動範囲が、グルン族の多い地域限定になってるのか)
ジョムソンでキャンプした際にも、地元ホテル協会長のサマリ氏は盗賊という単語を使っていなかったなあ……とチヤをすすりながら思い出す。
ニッキのアドバイスも思い出したので、茶店のオヤジに聞いてみた。
「天気予報を趣味にしているチベット僧ですが、そろそろここへ戻ってきていますか? 間もなく雨期が始まるので、今年の雨が強くなりそうなのかどうか聞いておきたいんです」
茶店のオヤジが気楽な口調で答えた。
「ん? ああ、あの坊様だったらもうすぐお帰りになるそうだぞ。だけど気まぐれな御方だからな、天気予報をしてくださるかどうか分からん。ワシも会った事がないし」
どこの派閥にも属していない上に、法衣も着ていないらしい。頭だけは丸刈り坊主だそうだが。
ゴパルが思わず微妙な表情になった。
(え……それって、もしかしてヒッピーっていうんじゃ……)
ゴパルの表情変化を楽しそうに眺めた茶店のオヤジが、その坊様の噂話を一つ教えてくれた。
「坊様だけどな、毎年同じ場所へ出かけているって話だ。ベトナムと中国の国境付近らしいな。何でも、その辺りがアジアで一番の桃源郷だとか何とか。ワシは行った事がないから分からんが」
ゴパルは何となく理解している様子だ。クッキーをかじりながら話した。
「あー……確か、その地域は温暖化や寒冷化の影響をアジア地域で最も受けにくいんですよ。微生物や菌類も多様な種が残存しているので、私も一度は行ってみたい地域ですね」
この場合のアジアとは、ユーラシア大陸のアジア地域なので、欧州以外の場所全てを指す。
ゴパルが自身のスマホを取り出して時刻を確認した。はるか上のガンドルンバスパークからかすかに音が聞こえてくる。小型四駆便のエンジン音だ。
「来たようですね。チヤごちそう様でした」




