ルネサンスホテルのロビー
菓子作りの実演を終えて、その後片付けが済んだ頃にスルヤ教授とディーパク助手がロビーにやって来た。二人ともに小奇麗な半袖シャツにジーンズではない長ズボンである。足元は革製の安全靴のようだが。
ただし、当然のようにボザボサ状態のままの髪については、コメントを差し控えるゴパル達であった。
レカは同じボサボサ頭なのでニコニコして親近感を抱いている様子だ。ディーパク助手に手を振って挨拶した。
「いらっしゃいー。ちょうど良いタイミングで来たなー」
スマホ盾を装備せずに普通に話しているのを見て、ゴパルが感心している。
(ボサボサ頭の仲間だと認識しているのかな。リテパニ酪農はスルヤ教授と組んで色々と実験しているみたいだから、顔なじみになっているのかも知れないな)
給仕長が案内して、レストラン内の予約席に座るスルヤ教授とディーパク助手だ。こういった雰囲気には慣れていないのか、やや挙動不審な動きをしている。
店内はほぼ満席だった。半数は欧米からの観光客で占められてある。ゴパルがスルヤ教授とディーパク助手の後ろについて席へ向かって歩きながら、客達の表情を見回した。
(メイデイ明けのせいかな。客の表情が明るいような)
レカがディーパク助手の隣に座っている。さすがに客が多いせいで表情がこわばっているようだが。向かい側にゴパルとカルパナが席に着いた。
スルヤ教授が、少し居心地悪そうな表情で口元を緩めている。
「学会の懇親会と違って、口論も殴り合いもないから調子が狂うな。ははは」
ゴパルが即座に同意した。
「ですよねー」
しかし、レストランで食事をする経験は豊富のようだ。テキパキと食前酒や赤ワインの銘柄を給仕長に注文していく。残念ながら、バクタプール酒造のワインは除外されてしまった。落胆するゴパルである。
(まあ分かっていましたけれどね)
ゴパルだけがいつものバクタプール酒造産の赤ワインを注文するという流れでもないので、大人しくスルヤ教授に従って北インド産の赤ワインにしたようだ。
カルパナはゴパルの心中を察したのか、心配そうな表情をしている。レカは反対に満面のニマニマ笑いだ。ゴパルのおかげで緊張がすっかり解けたようである。
給仕長が食前酒をグラスに注いでいく。これも北インド産の発泡ワインだ。スルヤ教授がボサボサ頭をかいて、申し訳なさそうに話した。
「本来なら、欧州産の発泡ワインにしたい所なんだけどね。先日までの燃料不足騒動で、ポカラの電力需要が急伸したんだよ。その対処とアドバイスとで発電所や変電所を駆け回ってね。金欠なんだ。ははは」
闇流通の燃料を使って、エンジンの調子が悪くなった運送会社とかもあったと話してくれた。
ディーパク助手も思い出したのか、ジト目になってため息をついている。
「酷い事件でしたよね……本当の意味での水増しガソリンとか、どこかの廃油をブレンドしたディーゼルとか」
どうやら色々とあったらしい。給仕長が穏やかな声でねぎらった。
「おかげ様で、ポカラでは深刻な停電や事故は起きませんでした。ホテルやレストランとしては感謝していますよ」
前菜盛り合わせが運ばれてきて、バゲットが入った藤カゴもテーブルの上に置かれた。発酵バターを乗せた小皿もやって来る。別のグラスには発泡水も注がれていく。
スルヤ教授が前菜を眺めて、嬉しそうに二重あごを手でさすった。
「ふむ。美味しそうだね。では早速いただこう」
前菜はサラダとラタトゥイユ、生ハム、それに小さなパイだった。
インド産の発泡ワインを飲みながら前菜をそれぞれ口にしたゴパルが、がっくりと肩を落とした。
「むむむ……やっぱりこちらの発泡ワインの方が美味しいですね」
スルヤ教授が少しドヤ顔になって笑った。
小太りの二重あごで、頬も少し垂れている顔立ちなのだが、目は切れ長で鼻筋も真っすぐ通っており、彫りがはっきりしている。若い頃は美形だったのだろう。笑うとその頃の面影が現れるようだ。背丈は百五十五センチほどなのでレカとほぼ同じなのだが、ボサボサ頭のせいでよく目立つ。
「そう言ってもらえると嬉しいな。安くても美味い酒を探した努力が実ったよ」
工業大学での仕事や、面白い学生の話をしながら前菜を食べ終えると、給仕長がやって来た。スルヤ教授が味見を終えた赤ワインを、全員に注いでいく。この赤ワインも北インド産だ。
「今晩の料理は鴨肉のコンフィです。油っこいですので、何かさっぱりしたサラダ等を追加しましょうか?」
スルヤ教授の年齢は五十代後半なので素直に同意した。
「そうだね。では小皿で一つ頼もうかな。基本的にはここにあるバゲットと赤ワインで食べるつもりなので、大盛りでなくても構わないよ」
給仕長が穏やかな表情で答えた。
「分かりました。軽めのサラダを用意しておきましょう」
カルパナとレカもサラダの小皿を注文した。ゴパルとディーパク助手は料理に集中したいようなので頼まなかったが。レカがジト目になって呆れている。
「肉ばっかり食べるとー、体によくないぞー。草食え草ー」
給仕が鴨肉のコンフィを運んできた。油煮込み料理なのだが、皿に盛りつけられていて表面の皮がパリッと香ばしく焼けている。
皿の隅には、数本のフレンチフライされたジャガイモとマスタードが添えられていた。ゴパルとディーパク助手以外の席には、別の小皿でサラダ盛り合わせも一緒に付いてきている。
レカが早速、スマホのカメラと持ち込んでいたハンディカメラの両方を使って料理を撮影し始めた。
それを見てから、ゴパルが首をかしげて料理を眺めた。
「煮込み料理だと思っていましたが、こういう風に盛りつけるんですね。てっきり、ネパール料理みたいに香辛料煮込みを香辛料抜きで調理するのかと予想していました」
ディーパク助手もゴパルに同意している様子だ。スルヤ教授がナイフとフォークを鴨の腿肉に当てながら、軽く肩をすくめて笑った。
「君達のように若ければ皿に盛りつけずに、鍋に入れたままで出しても問題ないだろうね。私のように歳をとってしまうと、油っぽい料理は苦手になるんだよ」
そうは言っても、彼もまだ五十代後半なのだが。白髪もまだほとんど見当たらない。




