低温蔵
メイデイが終わり、ゴパルは無事にABCへ戻ったのだが風邪をひいてしまった。さらに悪い事に、その風邪を留守番をしていたスルヤにも移してしまい散々な状況である。それでも寝込むほどではないので、低温蔵での仕事を二人で続けている。
スルヤが大きなため息をつきながら、強力隊によって運び上げられた新しい保存用の菌や発酵食品、ワインのサンプル等を専用の保管庫へ収めていく。
スルヤはこじんまりとした体型なので、風邪をひいて気分が落ち込んでいると余計にこじんまりとして見える。
「ゴパルさん……理不尽に思うのは気のせいですかね」
ゴパルが強力隊長のサンディプに、サインを入れた領収書の写しを手渡してから、申し訳ない表情で謝った。
「ポカラで飲み過ぎて、セヌワで寝冷えをしてしまったのが悪かったなあ。スルヤ君も、体調が戻ったらいつでも下山して良いからね」
スルヤがジト目になって答えた。
「言われなくても、そのつもりですよ。博士号が逃げてしまいますので」
サンディプがガハハ笑いをしながら、ゴパルの背中をバンバン叩いた。ゲホゲホ咳き込むゴパルである。
「相変わらず体が弱いナ、ゴパルの旦那。風邪なんかチャイ、酒を飲めば一晩で治るぜ」
ゴパルが両目を閉じて頭をかきながら答えた。
「軟弱者なので迷惑をかけてしまいますね。ナヤプルやセヌワには、他にまだ荷物が残っていますか?」
サンディプが厳つい胸板を張ってドヤ顔になる。
「無いナ。ディワシュも言ってるが、この仕事は儲けが大きくて良いナ。登山隊の荷物運びも良いんだが、この前みたいにチャイ、事故の危険があるのが厄介なんだナ」
サンディプも以前に車の事故でケガを負ったのだが、今ではすっかり回復しているようだ。
ゴパルがニッコリと微笑んで答えた。
「サンディプさんが動けなくなると、低温蔵の仕事が滞ります。今や重要人物ですね」
ガハハ笑いをしながら、サンディプが再びゴパルの背中をバンバン叩いた。ゲホゲホも再び起きる。
「光栄だナ。それじゃあ、俺はこれで去るぜ」
サンディプの筋肉隆々とした背中を、ゴパルが見送った。ABCは気温が低いので彼は長袖シャツに薄手のジャケット姿なのだが、それでも体つきが良く分かる。
「私も結構体が鍛えられたと自負していたんだけどなあ……まだまだだな」
などと言っているが、現状では中年太りの腹がへこんだ程度の変化しか見られない。
低温蔵の周辺はなだらかな斜面になっているのだが、今は若草で覆われていた。基本的には高山植物ばかりなのだが、人が持ち込んだ草も混じっている。蝶が乱舞していて、花も咲き始めているため彩のある風景になりつつあった。
「多分、この季節が一番過ごしやすいのかな。後で日向ぼっこでもしておこう。ちょうど風邪ひいてるし」
そんな事を考えていると、ポケットに入っていたスマホに電話がかかってきた。画面を見て現実に引き戻されるゴパルである。
「う……ハローハロー、ゴパルです。ポカラへ行けなくて、すいませんカルパナさん」
電話口から、カルパナのクスクス笑いが聞こえた。
「寝冷えが原因でも風邪は風邪ですよ。無理をしないでゆっくりと治してください」
既に風邪の原因までもがカルパナの耳に届いているようだ。恐縮しているゴパルに、穏やかな声でカルパナが本題に移った。
「先程、ポカラ工業大学のスルヤ先生と会いました。生ゴミボカシ製造機の試作機ですが、事業化の目途が立ったそうですよ」
ここでいったん言葉を切った。
「ええとですね……ペレット肥料もパメの畑で使いましたが、農家の皆さんからも好評ですね。この後は、本格的に清掃会社が事業化するそうです」
どうやら農家に対するインタビュー結果を、スマホで見ながら話しているようだ。
ゴパルもスマホで記録を見ながら、カルパナの話を聞いている。
(そういえば、清掃会社を作ったとラビン協会長さんが言っていたっけ)
元清掃カーストの人達を雇用して作った、生ゴミ回収と肥料化の会社だ。上手くいくと良いな……と期待するゴパルである。彼らとの直接の面識はないのだが。
「知らせてくれて、ありがとうございます。大学勤めの私としても、事業化に至ったのを聞くと嬉しくなりますよ。ポカラのゴミ問題と肥料不足が少しでも改善できるように、近くの仏塔にお祈りしておきますね」
本来であればチベット寺院に詣でるべきなのだが、アンナプルナ内院には残念ながら建っていない。ヒンズー寺院も無い。ガンドルンまで下りればあるのだが、そこまで行く気力は今のゴパルには無い様子である。
その他に雑談をいくつか交わしたのだが、ゴパルがニュースを聞いて気になっていた事をカルパナに聞いた。
「カルパナさん。燃料不足ですが、今はどんな状況ですか? ポカラ行きのバスや小型四駆便に影響が出るようなら予定を変えないといけなくなります」
カルパナの口調が少し沈んだ。
「深刻ですね。ポカラでもガソリンスタンドに長い列ができています。ですが、電気自動車は走っていますよ」
一日に数時間の計画停電が行われているのだが、電気自動車の方が便利になってきているようだ。ゴパルがアンナプルナ内院の氷雪で覆われた壁を見上げて、微妙な表情をした。
「雨期が始まると、水力発電所が詰まってしまいそうな予感をひしひしと感じますよ。それまでに燃料の支払い問題が解決してほしいですね」




