河原のキャンプ地
キャンプ地はジョムソンの北に広がる、広い河原の一角だった。やはりここも岩砂漠で草木が見当たらない。人家もなくて真っ暗だ。
キャンプの設営は既に終えてあったので、バスから降りた後は各々に割り振られたテントに向かうだけである。
ラビン協会長がツアー客にトイレや軽食、毛布や救護所の案内を行った。最後に穏やかに微笑む。
「それでは、ゆっくり休んでください。ここには蚊やハエは居ませんし、蛇も出ません。どうしても眠れない方は、救護所まで来てくださいね。夜のジョムソンの町へ出かける手配をします」
ツアー客がテントに向かっていく。その様子を見ながらラビン協会長がゴパルとカルパナに告げた。
「テントは二つ用意してあります。一人用のテントですので、どちらかお好きな方を使ってください」
了解する二人だ。サマリ協会長がラビン協会長の手伝いを始めたので、ゴパルとカルパナも加わる事にした。
といっても、毛布やランタンの貸し出しや、それぞれのテントの前に折り畳み式のソファーを設置するような軽作業だったが。
テントでの焚き火は禁止されているので、救護所の前にたき火台を設置して、そこで火を焚いている。
ゴミ箱に蛍光テープを貼りつけてテントの近くに置いたり、トイレへの道しるべを立てたりしていたゴパルが一息ついた。
(本当に真っ暗だなあ。ジョムソンもこの時期の夜は風が吹かないんだね)
ジョムソンは別名『風の町』とも呼ばれているほど、日中は強風が吹く事で有名だ。歌にもなっているほどである。
一通り仕事を終えて救護所に戻ると、ジョムソンの町へ向かうバスに数名のツアー客が乗り込んでいくのが見えた。
ラビン協会長が軽く肩をすくめながら、気楽な口調でゴパルに話しかけてくる。
「真っ暗な中で眠るのは、苦手な人も居ますね。ジョムソンのホテルにいくつか部屋を予約してありますので、そこで休んでもらいましょう」
サマリ協会長がやって来て、同じような仕草をした。
「こういう措置も必要ですよね。ですが、半数以上の参加者がテントで就寝しました。この時期は暖かいですので、テントの外で眠っている人も居ますね。警備員に知らせておきます」
テントの周囲には、民間の警備会社員が配置されているという事だった。暗視スコープを装備しているらしい。
ゴパルがサマリ協会長に聞いてみた。
「ガンドルンのように山賊が出るのですか?」
軽く肩をすくめて微笑むサマリ協会長だ。
「山賊というかコソ泥が多いですね。安全には万全を期す必要があります。ジョムソンでは最近になって様々な事業が始まっていますから、流れ者も増えてきているんですよ」
サマリ協会長によると、マグネシウム電池やアンモニア製造、アンモニア燃料電池等の実証試験がジョムソンで始まっているという話だった。主にポカラ工業大学が主導している事業なのだが、バクタプール大学も関わっているらしい。
「ゴパル先生が所属する微生物学研究室も、ここで淡水性緑藻を培養して燃料をつくる事業に関わっていると聞きましたよ」
キョトンとするゴパルだ。
「聞いていませんよ。でも、クシュ教授ならやりかねないなあ……」
ラビン協会長がクスクス笑ってゴパルに告げた。
「実はポカラでも、食用廃油を燃料に加工する実証試験が二週間後に始まります。クシュ先生なりの配慮だと思いますよ、ゴパル先生。低温蔵とKL事業に集中して欲しいのでしょうね」
そう言われても微妙な表情をしたままのゴパルだ。
「……多分、私も駆り出される事態になると思うのですが」
ラビン協会長がバスの運転手からの合図に答えた。
「ではそろそろジョムソンに行ってきます。留守中はよろしくお願いしますね、サマリさん」
サマリ協会長が気楽な表情で応じた。
「了解。ジョムソンにはカジノもあるので、少しの間だけなら羽を伸ばしてきても大丈夫ですよ」
ラビン協会長と数名のツアー客を乗せたバスが発車して、真っ暗な河原の道を走り去っていく。その赤いテールランプを見送ったサマリ協会長が、軽く背伸びをした。
「燃料不足はネパール全土で起きていますが、ここのような僻地になるほど深刻になります。こういった代替燃料の開発事業の場所を提供する事で、少しでも状況が改善できれば嬉しいですね」
確かに、ポカラからバスで十時間以上もかかる場所だ。雨期になれば、道が土砂崩れで不通になる事態も起こるだろう。岩砂漠で燃料にできそうな木も生えていないような場所では、燃料問題は予想以上に重大事なのだろう。
実際、ネパール政府がインド政府に対する燃料の輸入代金の支払いを滞らせたので、輸入量が削減されている最中だ。ネパール政府は二週間以内に代金の支払いを済ませるとしているが、サマリ協会長は懐疑的な様子である。
そんな話をしているとカルパナが戻ってきた。ニコニコしている。
「皆さん眠ってしまいました。凄い効果ですね。バス旅でかなり疲れたようです」
まあ、不眠症といっても不摂生な生活リズムによるものだ。本格的な治療が必要になるものではない。スマホが使えないと、何もする事がなくなって眠るしかなくなる。
サマリ協会長もその報告を聞いて口元を緩めた。
「それは良かった。彼らにとって良い気分転換になったのでしょう」
そして、少し考えてから残念そうな表情になった。
「雨期が始まるまで、それほど猶予は残っていませんね。不眠症改善ツアーは興味深いのですが、本格的に企画が動き出すのは雨期明け以降になりそうですね」
ジョムソンの町は雨期であっても雨がほとんど降らない。しかし、ツクチェの南からポカラまでの区間では大雨が降る。大きな土砂崩れが起きれば一週間単位で行き来できなくなるだろう。
空路はもっと危険だ。ジョムソン空港は危険だと知られている。雨期前の今ですら、朝から風が強く吹いていると離着陸に失敗する。
よく起きるのは、滑走路を通り過ぎて川に突っ込む事故だ。西暦太陽暦の五月は乱気流が発生しやすくなり『墜落の季節』とまで言われている。そして雨期が激しくなれば、ジョムソンでは晴れていても空港閉鎖だ。
サマリ協会長が気楽な口調で話を締めた。
「昔からこうですから、我々地元民は何とかなります。ジョムソン街道が土砂崩れで不通になっても、ロバ隊であれば迂回できますしね」
たくましいなあ……と感心するゴパルだ。
サマリ協会長が周辺を見回した。
「さて、人も来なくなりましたし、ゴパル先生とカルパナさんも休んでください。ここは私一人で大丈夫ですよ」
実際、バス旅をしてからツクチェで仕事をしてきたので、疲れている様子の二人だ。サマリ協会長に礼を述べてそれぞれのテントに向かった。
目がかなり慣れてきたようで、夜空を見上げると満天の星空が広がっているのが分かった。新月の夜なので星明りだけなのだが、それなりに明るく見える。
河原を歩きながらゴパルが感嘆して星空を見上げた。
「凄い星空ですね。天の川がはっきりと見えます」
カルパナも横を歩きながら見上げて微笑んでいる。
「ポカラでは空が塵で濁っていますから、ここまでの星空は望めませんね。スリランカから来ていた方の話では、現地の最高峰から見るともっとたくさんの星が見えると自慢していました」
そう言って南の空を指さした。白く光る点が星空の中に見えている。
「宇宙港の反射光だそうですよ。今はモルディブの島へケーブルを下ろす準備中ですね」
ゴパルも見て、その光に向けて合掌した。
「おかげで色々な素材開発が起きましたね。低温蔵を建てる時にとても役立ちましたよ。感謝感謝です」
クスクス笑うカルパナだ。
「私がKLと出会えたのも、低温蔵の建設のおかげでした。宇宙港に感謝しておこうかな」




