リンゴ園
もう夕方になっていたので、茶店でチヤを一杯だけ飲んでからビカスのリンゴ園に行くゴパルとカルパナであった。荷物はその茶店に預ける事になった。
ツクチェは小さな町なので、すぐに町の外に出た。そのまま乾いた急斜面を登っていく。家畜除けの柵をいくつか乗り越えるとリンゴ園に到着した。牧草が園内を一面覆っている。早速カルパナの指導を実行しているようだ。
そのビカスが照れながら紹介する。
「ここがワシのリンゴ園ラー。どうかなー」
カルパナが土を手にした。
「乾いていますけれど、有機物がたくさんあって良い土ですね」
カルパナに続いて、ゴパルも土を手にして褒めた。
「土壌生物も数多く見られますね。キノコ臭がする土なので良いと思いますよ」
照れまくるビカスだ。
「嬉しいラー。それじゃあ、指導よろしく頼むラ」
ゴパルがスマホを取り出した。それを使って、首都のクシュ教授や育種学研究室のラビ助手と通信しようと試みたが……残念ながら無理だった。
「うーん……この時間は通信衛星が上空に来ていないのか。それじゃあ、後で撮影記録を送信するかな」
ビカスが上空を見上げて否定的に首を振った。
「ツクチェは高い山に囲まれてるラ。電波は届きにくいラ」
それでもビカスに言わせれば、ツクチェには平らな場所が多いという事だったが。
カルパナがリンゴの木の枝と葉に触れながら、ゴパルとビカスに微笑んだ。
「隠者さまの思い付きまで実行してくれたのですね。ありがとうございます、ビカスさん」
リンゴの木の幹が全て地際から白い土で塗られていた。さらに園の縁には、麻ロープの結界まで作られているようだ。ゴパルはノーコメントである。カルパナがクスクス笑いながらゴパルを見て、改めてビカスに告げた。
「それでは始めましょうか」
ちょうどこの時期に肥料を撒くという事だったので、その肥料を確認する。リンゴ園の一角に堆肥が山積みになっていたので、それを手に取るカルパナだ。少し微妙な表情である。
「乾燥しているせいでしょうか、腐植の割合が少ないですね。このまま使っても、保水効果や肥料効果は薄いと思います」
ビカスが困った表情になって、カウボーイハットを手で叩いた。
「昼前になると風が吹くラ。それで吹き飛ばされるラ」
なるほど、と理解するカルパナだ。
「牧草を積極的に栽培して、それを押し倒して園内を覆うようにしましょうか。枯れた牧草は堆肥の代わりになりますし」
了解するビカスである。
「分かったラー。牧草を植えてから土が舞い上がりにくくなったラ」
ゴパルがリンゴの葉に触れながら補足説明を加えた。
「土はできるだけ舞い上がらないようにしてください。病原菌や害虫が土と一緒に葉に付いてしまいます。牧草で分厚く園内を覆うという考えは、理に適っていると思いますよ」
リンゴの枝の剪定はカルパナの指導の通りに実行済みだった。ビカスがニコニコしながら枝に触れる。
「日光が木の中心まで届くようになったラ。木が元気になった気がするラー」
今度はカルパナが照れている。
「私は北米の友人から聞いたアドバイスを伝えただけですよ。でも確かに木の勢いが良さそうですね」
ビカスがリンゴ園の山側の端にカルパナとゴパルを案内した。溝が切ってあり、その中で土ボカシを仕込んでいた。
「生ゴミボカシは牧羊犬が食ってしまうラ。だもんで土ボカシにしてみたラー」
驚くゴパルである。
「え? 生ゴミボカシまで作り始めているんですか。ここでは気温が低いので、ポカラよりも時間がかかりますよ」
ビカスによると、生ゴミはいったんKL培養液の原液に一週間ほど漬け込むらしい。その後取り出して、米ぬかを振りかけて土と混ぜ、それをこの溝に投入しているという話だった。つまり、ポカラで作っているような生ゴミボカシではない。
(これは、多分クシュ教授が電話で指導したみたいだなあ……私にも一言くらい言ってくれたらいいのに)
溝の中に入って、土ボカシの状態を手に取って確かめたゴパルが感心している。
「へえ……発酵してるよ。乾いている場所だから、カビの菌糸が成長しやすいのかな。大きな土壌生物も多いですね。彼らが生ゴミを食べて分解しているのか……微生物や菌よりも分解速度は速くなりますね」
カルパナも土ボカシを手に取って感心していた。
「これなら、一か月もすれば生ゴミが全て分解されてそうかな。牧草の上から撒くだけですから、リンゴの根には直接触れませんし、この方法で問題ないかも」
ほっとしているビカスだ。
「それじゃあ、じゃんじゃん作って、じゃんじゃん使うラー」
それについては注意を促すカルパナである。
「いきなり肥料をたくさん与えると、木が驚いて調子が悪くなってしまいますよ。リンゴも苦くなってしまうそうです。葉の色が濃くならないように、枝が伸びすぎないように注意してくださいな」
ゴパルも忠告した。
「カルパナさんの言う通りだと思います。今までやった事がない農法をするのですから、これまでの経験が通用しない場合も出てきます。慎重に進めてください」
少し考えてから話を続ける。
「土壌診断も二年に一回くらいは行った方が良いですね。その方が、私やカルパナさんもリンゴ園の状況を理解しやすくなります」
素直に了解するビカスだ。ただ、前回聞いたKLの使い方の中で、一つだけは良くなかったと打ち明けた。
「KL培養液だけど、五十倍に水で薄めてもリンゴの葉が焼けたラー。もっと薄めても良いラ?」
前回はリンゴの木全体に、KL培養液を水で十倍から五十倍に希釈して散布するように指導していた。濃度が濃すぎたらしい。
確かに、これほど乾燥した場所だとは想像していなかったゴパルである。周辺には松くらいしか木が生えていない。頭をかいて謝った。
「すいません。予想以上に乾燥していましたね。ですが、できれば希釈倍率はこのままでお願いします。水を数時間後にかけて、洗い流す事はできますか?」
ビカスがうなずいた。
「できるラ。水自体は近くの沢からいくらでもとれるラ」
斜面の上の方に沢があって、そこから水を引いているらしい。この水はダウラギリ連峰の氷河から流れ出ているそうで、砂ろ過してから飲料水にも使っているという事だった。
ビカスとカルパナが二度手間なのでは? と感じている様子なので説明するゴパルだ。
「リンゴの木は有機酸を散布すると、乾燥に強くなる性質があるんですよ」
さらにリンゴの木は、強風や霜、降雪に遭った二、三日後にストレスが最大になる。その際にエチレンを大量に作り出してしまい、リンゴの落果や生育不良につながる。これに対しても、有機酸を散布する事で緩和できるという話だった。
ビカスが腕組みをしながら、微妙にうなずいている。
「理屈はよく分からないラ。だけど、風が強い日の後はリンゴの木が弱るラー。KLで何とかなるって事ラ?」
ゴパルが軽く肩をすくめながら笑った。
「農薬ではないので、あくまでも緩和に留まる程度ですよ。天気予報で翌日に強風が吹く恐れがあった場合は、網なんかで木を覆って防風対策をした方が良いでしょうね。ついでにKL培養液をリンゴの木に散布して水洗いしておけば、緩和効果も高まるはずです」
ネパールの天気予報は、それなりに当たる。しかしこのような急峻な地形では局所的な天候急変が起こりやすく、その予報は難しいのが現状だ。世界的に見ても、東西に八千メートル峰がある谷の町は少ない。
ビカスもその事を知っているようで、微妙な表情をしている。
「天気予報はなあ……天気予報の坊様もまだネパールに戻ってないって聞くし、KLをせっせと散布するしかないラ」
ビカスが話題を変えてゴパルに聞いた。
「害虫被害もあるラ。モモシンクイガの農薬ってあるラ?」
ゴパルがカルパナの顔色をうかがいながら答えた。
「ありますよ。後で生物農薬の情報を送信しておきますね」




