ツクチェ到着
結局カルパナが言ったように、バスは断崖絶壁に刻まれた道をグネグネ曲がりながら走り始めた。
おかげで、あまり眠れなかったゴパルである。
(うーん……八千メートル峰の間を通る道だから、グネグネ曲がるのも当然かな。落ちたら間違いなく死ぬな、これは)
バスの大きなフロントガラスを通じて、ゴパルが座っている場所からでも道の状態がよく見える。基本的には舗装されているのだが、がけ崩れが頻発しているのだろう、土道の場所もかなり多い。そして、崖の底は見えなかった。同時に崖の上にそびえているはずのアンナプルナ主峰やダウラギリ主峰も見えない。見えるのは一面の崖だけだ。
対岸も崖だらけの急斜面で、森がしがみついているような風景である。
(うわー……よくこんな道を通したなあ。いくら塩の道のジョムソン街道だからといっても、険しすぎるぞ)
本来は馬やロバの荷駄隊が行き来する道なので、街道といっても普通に細い山道だ。それを無理やり拡張して、バスが通れるようにしている。従って、道としては険しくなるのも道理である。
いつしかバスの車内では、起きているのは運転手とゴパルだけになっていた。皆、すやすやと眠っている。隣の窓側の席で穏やかな表情で眠っているカルパナの横顔を見て、感心するゴパルだ。
バスの最後尾にはトイレが付いているので、たまに起き出してきた乗客が利用している。
(慣れてるなあ。まあ、慌てても仕方がないってのもあるだろうけど。っていうか、もう不眠症が解消されているような気がするんですが、これは)
バスが急なカーブを曲がるたびに左右に体が揺れる。バスの席は幅が狭いので、カルパナの肩がゴパルの肩に当たる。困った表情でドギマギしているゴパルであった。
「ゴパル先生、そろそろツクチェに着きますよ」
カルパナの声に反応して目が覚めるゴパルだ。あれから結局眠ってしまったらしい。目をこすりながら背伸びをして起きて、カルパナの肩に腕が当たって我に返った。
「あっ、すいません。うっかり、いつもの癖が出てしまいました。うわわ、もう四時になるのか」
カルパナはニコニコしたままだ。
「よく眠れたようで良かったです。車内の皆さんも熟睡していたようですよ。ツアー成功ですね」
確かに車内が賑やかになっている。
協会長も前の席から顔をゴパルとカルパナに向けてきた。彼もニコニコしている。
「早くも効果が出てしまいましたね。ははは。私を含めて参加者の皆さんは、普段山のバスに乗る事がないのですよ。もっぱら飛行機を使います。もしくは自家用車ですね」
そして、ゴパルに改めて微笑んだ。
「ようこそ、ツクチェへ」
フロントガラス越しに眼前の風景を見たゴパルが目を点にした。
「わわわ。噂通りの別世界なんですね」
道は非常になだらかな上り坂になっていてカーブも少なくなっていた。河原沿いの道なのだが、その河原には無数の石が転がっていて、幅も数十メートルはある。川はその河原の中を流れているのだが、波立つ事なく悠々とした流れだ。
河原の外側は急峻な斜面になっているのだが、草木がほとんど生えていない。乾燥に強い松の林が目立っている。急斜面は延々と上方へ伸びていて、バスの中からでは尾根が見えない。
河原の端や斜面には、あちらこちらに白くて小さな仏塔が立っている。それを飾るように色とりどりの仏旗が風にはためいていた。
斜面に目を凝らすと、チベット馬やロバ、それに山羊や羊の群れが動いているのが見える。さすがに水牛はここには居ないようだ。
ゴパルが目をキラキラさせて風景を眺めていると、カルパナが申し訳なさそうに告げた。
「ゴパル先生。そろそろ到着しますよ」
再び我に返るゴパルだ。
「あっ、すいません。降りる準備をしますね」
バスが河原沿いの道で停まった。下車したのはゴパルとカルパナの二人だけで、協会長が車内から手を振った。
「では、夕方にジョムソンで会いましょう」
ゴパルとカルパナが手を振り返すと、バスが動き出した。そのまま砂煙を立てながら走り去っていく。それを見送ったゴパルが目を南に向けた。
「うわ……高い山ですね。アンナプルナ主峰ですか?」
カルパナも見上げた。
「ダウラギリ連峰ですね。アンナプルナ連峰は残念ですが東の山の向こう側に隠れていますよ」
東側にも高い山があるのだが、これは普通に松林に覆われている。山の向こう側に白い峰が顔を出していた。
ちなみに、これはニルギリ峰で、アンナプルナ連峰はその向こう側になる。南側にはダウラギリ連峰が白い姿を見せているので、どうしても視線がそちらに向いてしまうようだ。
(んー……でも、ダウラギリ連峰もここからじゃ迫力に欠けるなあ。周辺は岩山ばかりだし、観光地としては弱いのかな。だからリンゴ栽培とか地場産業に力を入れているのか)
アンナプルナ連峰やダウラギリ連峰、それにニルギリ峰までの直線距離は、ポカラからよりも断然短い。しかし、近すぎて見えないという状況だ。アンナプルナ主峰の頂上から見下ろせば、深さ五千メートル以上もの深い谷底にある町である。
ゴパル達が下車した場所の道路はきちんと舗装されていて、近くには石造りの白い町があった。ミニバスやタクシー、それにバイク等が停車していてポカラで見かけるような茶店もある。
外国人観光客の姿も見え、茶店や民宿のテラス席で寛いでいる。今の時期はインド人客が多いようだ。
(確かに、ここは涼しくて過ごしやすそうだね。熱波のインドから避暑に来るには良い場所なのだろうなあ)
そのような事を思っていると、一人の見知った男が手を振って駆けつけてきた。色落ちしたカウボーイハットが似合っている。今回も首にタオルを巻いていた。
「ようこそツクチェへ、カルパナ先生、ゴパル先生。腰とか大丈夫ラー?」




