出発
バスの席は通路側だったので、おとなしく座る。
「あ……そうだ。バスが走り出したら、送受信するのが面倒になるな」
スマホを取り出してチャットやメールを確認する。ラメシュ達やカマル社長からメッセージが届いていたので返信した。
やがてバスの発車時刻になったようだ。運転手が戻ってきて、ゴパルに挨拶した。その後、不眠症ツアー客が戻ってきて、カルパナも戻ってきた。
まずは謝るゴパルだ。
「忙しいのに、すいません。クシュ教授のわがままには困ったものです」
カルパナが穏やかに微笑んで、否定的に首を振った。
「暑くなってきましたから、農作業も一通り終わっていますよ。ナウダンダでのイチゴも収穫を終えましたから、少し暇に感じるくらいです」
そうなんだと聞いているゴパルに、穏やかな口調で話を続けた。
「オイスターマッシュルームの収穫が始まりましたけど、これもまだ規模が小さいままですからね」
イチゴは収穫シーズンを終えると、今度は来年に向けての苗を育てる作業に移る。ちょうどその合間の時期なのだろう。
カルパナが嬉しそうに、イチゴジャムや冷凍ジュースがたくさんできたと話してくれた。冷凍ジュースはアイスクリームやカクテルの材料に使うらしい。
感心して聞くゴパルだ。
「イチゴは日持ちがしないと聞きます。なるほど、そういう風に加工しておくんですね」
カルパナがうなずいて、二重まぶたのパッチリした目をキラキラさせた。
「美味しいですよ。イチゴ苗に蒸気を当てると、病害虫を抑える事ができるそうです。その実験をポカラ工業大学のスルヤ先生にお願いしています」
カルパナが自身のスマホを取り出して、詳細を確認しながら話を続けた。
「蒸気の温度を五十度にして、十分間ほど続けると効果が上がるとか言っていました。成功すれば農薬をかなり減らす事ができますね」
イチゴの主な病害虫は、うどん粉病とハダニなのだが、これらを苗の段階で抑える事ができそうだと話してくれた。
感心して聞くゴパルだ。
「へえ……五十度でしたら、KL構成菌はギリギリ生き残るかも知れませんね。考えるなあ、さすがゴビンダ教授」
協会長がバスに最後に乗り込んできた。乗客が全員バスに乗っている事を確認して、運転手に合図した。バスがゆっくりと走り始める。
ゴパルが次にブータンの件について話した。真剣な表情で聞くカルパナだ。
「……確かに、一ヶ月後は忙しいかな。雨期直前ですので、雨対策を終えておく必要があるんですよ。スバシュさんに代わりに行ってもらうというのは、良い考えですね」
ポカラはネパール国内でも有数の豪雨地域だ。特にトマト栽培では、排水が悪かったりすると病気になりやすい。とりあえず疑問に感じていた点を聞いてみるゴパルだ。
「食用ランですが、美味しいんですか?」
カルパナが小首をかしげて、困ったような笑顔を浮かべた。
「実は私も食べた事がそれほどありません。ブータンの品種がどうなのかは、実際に食べてみないと何とも言えないですね。インド産はランの香りがして良かったですよ」
インド産は熱帯性のランなので、ポカラでは気温が低くて栽培が難しいと話してくれた。ブータン産はクシュ教授の情報によると温帯性なので、ナウダンダで栽培できる可能性がある。ゴパルが納得した。
(花だから味は二の次なのかな。サビーナさんの料理に添えたりすると、確かに話題になりそうだ)
協会長は一番前の席に座って、スマホで何やら操作をしている。舗装されている道とはいえ、曲がりくねっているので文字を打つのが大変そうだ。
その姿を見てから、ゴパルがつぶやいた。
「ラビン協会長さんはまだ仕事をしているようですね。忙しいのに、わざわざ参加しているのを見ると期待しているのかな」
カルパナも協会長に視線を向けてうなずいた。
「ポカラと比べると、ツクチェやジョムソンは小さな町になります。少しでも多く観光客を呼べる事業を立てたいのでしょうね」
カルパナが窓の外に視線を向けた。ナヤプルから先は本格的に険しい山道になるので、集落も小さくなる。
「まだこの辺りは山が高くて空が狭いですね。ジョムソンも山に囲まれていますが、星空が綺麗ですよ。隠者さまも今回のキャンプ旅行に賛成してくれました」
ゴパルが意外だという表情をしてから、納得した表情に変わった。
「ああそうか。ジョムソンって有名なヒンズー教寺院がありますね。ムクチナート寺院でしたっけ」
カルパナが穏やかにうなずいた。
「はい。今は車で行き来できるようになっていますね。時間があれば私も詣でてみたいのですが、今回はちょっと難しいかな」
今回はジョムソン郊外で一泊するだけだ。
本格的にツアーが企画されればジョムソンに滞在する日数も増えるので、ムクチナート寺院へ行けるようにもなるのだろう。
カルパナが話しながら苦笑した。
「ワリンで起きた援助隊の事件について、隠者さまに知らせたのですが……予想通り怒っていました。援助隊には良い印象を持っていないみたいですね」
彼の場合は、外国人全体を快く思っていないように感じるゴパルであったが、ほとんど会う機会がないので素直にうなずくだけに留めた。
ちょうど前の席に座っている協会長が仕事を終えたのか背伸びをした。ゴパルもあくびをする。クスクス笑うカルパナだ。
「バスの旅は疲れますから、ゆっくり休んでくださいな。これからもっと本格的な山道になりますよ」
ゴパルが肯定的に首を振った。
「山のバスには慣れていますが……そうですね、では失礼してひと眠りします」




