ナヤプルの居酒屋
一週間後、ABCの低温蔵で仕事をしていたゴパルにポカラから電話がかかってきた。スマホを取り出して電話を受けると、彼の表情が微妙なものになっていく。その変化を見たスルヤがジト目になった。彼は何かの菌の培養をしているようだ。
「ゴパルさん、またポカラへ下りるんですか。仕事が溜まりまくっているんですけど」
ゴパルが申し訳なさそうに頭をかいて謝った。
「ごめんよー。山羊乳チーズのシェーブルの改良品が出来上がったって電話がかかってきたんだよ。これにはウチの研究室が開発した凝固剤を使ってるから、その評価をしに行かないと」
スマホ画面を見て、追加説明を加えた。
「それと、エリンギ栽培とズッキーニ苗の定植もするそうだから、撮影してくるよ」
スルヤが深いため息を漏らしてから、気だるげに首を振った。一応は肯定的な意味合いの首振りだ。
「仕方がないですね、もう。なるべく早く戻ってきてくださいよ、ゴパルさん」
そんなわけでナヤプルまで下りたゴパルであったが、すぐにディワシュとサンディプに見つかって居酒屋に連れ込まれてしまった。ディワシュの背はゴパルよりも十センチほど低い百六十センチほどなのだが、骨太なので力は上だ。
「ゴパルの旦那は、これからポカラかナ? だったら飲んでけ飲んでけガハハ」
サンディプに至っては強力隊長なので、捕まると脱出不可能になる。身長はゴパルと同じ程度なのだが筋肉の量が違う。
「飲んでけ飲んでけガハハ」
「うわ、おわ」
抵抗らしき抵抗もできずに居酒屋の席に座らされるゴパルであった。そして、店主が有無を言わさずにシコクビエの焼酎をコップ酒で出してきた。ニッコニコの表情である。
「ジヌーから歩いてきたんだろ。暑いからナ、水分補給していけ、さあ飲め飲めガハハ」
そのまま、注文もしていないのに酒のツマミの豚チリが出てきて、朝食では定番のプリも皿に乗ってやって来た。揚げたてのようで湯気が立っている。プリは手の平サイズの平たい揚げクレープのようなものである。今は昼前なのだがお構いなしだ。
観念したゴパルが手を洗って微笑んだ。
「ありがとうございます。では早速いただきますね」
ディワシュとサンディプは既に飲んでいたので、豚チリとチャパティをツマミにしていた。
店内には他にも客が数名ほど居て酒宴を開いている最中だ。ちなみに全員がグルン族なので、ドラ声で歌っている曲もグルン語である。ただしガンドルン系ではなくてランドルン系のグルン語だそうだが、ゴパルには聞き分けられない。
豚チリを食べたゴパルが垂れ目を細めて喜び、ぬる燗になっているシコクビエの焼酎をぐいっとあおった。
「んー、美味しいですね。豚肉の臭みが減っていますよ。このヒラタケはここで栽培しているヤツですよね。これも美味しいです」
店のオヤジがドヤ顔で笑った。
「そりゃあオマエ、KLを使ってるからナ! 豚肉も鶏肉もヒラタケも美味くなってチャイ、評判良いぜ」
ゴパルの目が点になった。
「え? 豚と鶏ですか?」
ディワシュが豚チリをツマミながらニヤニヤ笑っている。
「サランコットの民宿のオヤジ共が、KLを使うとトイレの悪臭が和らいだってチャイ、喜んでるんでナ。だったらもっと臭い豚小屋や鶏小屋で使っちまえ、って流れだよ、ゴパルの旦那」
感心するゴパルだ。
「ひえええ……こんな効果があるんですか。驚きました。肉の消臭って、初めて聞きましたよ」
ディワシュが少し呆れながらガハハ笑いを始めた。
「ゴパルの旦那はKLの開発者の一人だろ。何うろたえてるんだよ」
ちなみに、パメの野菜をサランコットの丘の民宿街へ朝と夕に配達する仕事は、彼の仲間に任せているという話だった。
ディワシュは小型四駆便でガンドルンまでの往復をする仕事があるし、サンディプは強力隊を指揮しないといけないので納得するゴパルである。
そのサンディプが何となく眠そうにしているので、ゴパルが気遣った。
「強力隊の仕事お疲れさまですね、サンディプさん。あまり無理をしないでくださいよ」
サンディプが焼酎をガブ飲みして、ニッカリ笑いを浮かべた。
「仕事のせいじゃないナ。宿の隣の家が悪霊祓いをしててナ。一晩中ドンチャカやってたからうるさくてチャイ、寝不足なんだ」
ネパール人のほとんどはヒンズー教徒か仏教徒、イスラム教徒なのだが、呪術師を信じてもいる。
ダミと呼ばれる呪術師は、家族の誰かが体調不良になったりすると呼ばれて悪霊祓いをする。今回は、一晩中ダミが太鼓を叩きながら呪文を唱えていたようで、うるさくて眠れなかったらしい。
同情するゴパルだ。
「あー……ダミですか。私の故郷のカブレにも多いですね。あれって反対に体調を悪化させたりするので、あんまり当てにしない方が良いと思いますよ」
まあ、一晩中眠れずにいれば体調も悪化するだろう。ゴパルが次にディワシュに聞いた。
「そういえば、そろそろメイデイですね。やっぱり今回もゼネストをするとか。仕事ができなくなりますから、今のうちに稼いだ方が良いと思いますよ、ディワシュさん」
ディワシュが焼酎を飲み干してガハハ笑いをした。
「だーいじょーぶだ。金は貯めたぜっ。メイデイの間はゆっくりするさ」
ゼネストはゼネラルストライキの略で、全国の交通機関が一斉に休業する。この期間は飲食店も閉店する所が多い。ディワシュによると、それに加えて燃料不足がまた起きそうだという事だった。
ネパールはインドからガソリンやディーゼル、灯油を輸入しているのだが、その代金が不払いになっているらしい。首都カトマンズだけでもガソリンの消費量は毎日三百五十トン、ディーゼルは四百五十トンに達する。
今週中に支払わないと、インドからの輸入が制限される事になるそうだ。その場合、ガソリンの供給量は二百五十トンに引き下げられる。不払いが長引くと制限量が増えて、最後には輸入できなくなってしまう。
今回の不払い代金は今の段階では五十億円ほどになる見込みだ。しかし、ネパール側は半分しか支払えない状況という。そのためネパール政府は今、金策に奔走している最中という話だった。
ディワシュが太い眉を上下させて口元を緩めた。
「毎年の恒例行事になってるけれどナ。いつも通りなら、二、三週間後に何とか支払いを済ませるハズだ」
ゴパルが難しい表情になって豚チリをつまんだ。
「恒例行事になると困るんですけれどね……燃料不足のせいで、低温蔵を建てたようなものですし。もしも長引いたら、仕事ができなくなって困るんじゃないですか? ディワシュさん」
ディワシュがニヤリと笑った。
「なーに、その時はロバ隊に戻るさ」




