予防接種
アバヤ医師の病院は、ポカラ市内のニューロード通りにあった。
彼は元々ポカラの住民ではない。外から引っ越してきたために、ポカラの都市開発で造成された住宅地に居を構えている。この点は昔から住んでいるカルパナ達とは異なる。
ニューロード通りは新興住宅地なのだが、多くの零細工場や会社も軒を連ねている。乗用車よりもトラックやバイクの方が多い印象だ。その一角に『チョウドリー病院』があった。
カルパナがゴパルと二人乗りで到着した。ヘルメットを外して、病院の周囲や中をキョロキョロする。
「あらら……ちょっと遅れてしまったようですね」
確かに予防接種待ちの人が見当たらない。車も無く、サビーナのスクーターだけが停めてあった。
病院の待合室へ入ると、サビーナとレカが退屈そうにして待っていた。ソファーにもたれかかりながら、カルパナとゴパルに手を振っている。
「予定よりも早く進んだのよ、カルちゃん。あたしとレカっちも予防接種を済ませたわ」
レカはスマホで何かゲームをしている最中のようだった。目をゲーム画面に向けながら片手をヒラヒラ振っている。
「そーいうことー。さっさと済ましちゃえー」
ゲーム中なのか、ゴパルが居てもスマホ盾を構えなかった。カルパナがヘルメットをソファーの上に置いて、診察室の方を向いた。
「私の家族や親戚も予防接種を済ませちゃったのか。ゴパル先生に紹介しようかなと思ってたんだけどな」
少ししてから病院の待合室へ入ってきたのはスバシュとビシュヌ番頭だった。ゴパル達に合掌して挨拶を交わす。
ビシュヌ番頭が周囲を見回して軽く首を振った。
「予定時間よりも早く来たのですが、正解だったようですね。ケシャブ達もこの後やってきますよ、カルパナ様」
待合室が騒がしくなったためか、診察室から医者が顔を出した。一目でアバヤ医師の息子だと分かる顔立ちと体型だ。しかし、親と違い実直そうな印象がある。
「いらっしゃい。準備ができていますから、ゴパル先生から先に注射を打ちましょうか。どうぞ診察室へ」
アバヤ医師と違い、身長も十センチほど高くて百六十五センチくらいありそうだ。至ってまともそうな人柄である。ソファーに座ろうとしていたゴパルが慌てて立ち上がった。
「あっ、そうですか。今行きます」
今回の予防接種は、マダニが媒介する病気群に対してのものだ。重症熱性血小板減少症候群や、日本紅斑熱といった危険な病気を対象にしている。予防接種を受けずに感染発病すると、致死率が三割にも達する危険な病気である。
重症熱性血小板減少症候群は、六日間から二週間ほどの潜伏期間を経て、発熱、嘔吐、下痢、出血等の症状が出る。重症の場合は多臓器不全に陥る。日本紅斑熱は、発熱や発疹が現れる。
マダニは気温が高くなる西暦太陽暦の三月から活発に活動を始めるため、これらの病気もその時期から急増していく。
しかし、予防接種は注射してから効果が出るまでに一か月間ほどかかる。そのため、この時期に注射しているという事だった。ちなみにこの予防接種で得た免疫は一年間も持続しない。そのため、毎年打つ必要がある。
診察室に入って早速、予防接種を打ってもらったゴパルだ。実直そうな医者がゴパルに頭を下げた。
「アバヤの息子のラムクリシュナです。いつもいつも父が迷惑をかけているそうで。父に代わり私が謝ります」
ゴパルが厚手のシャツの裾を戻しながら恐縮した。この時代の注射器は出血しないように加工された針を使用している。
「いえいえいえ、大いに助かっていますよ。今回もポカラ観光の引率を引き受けてくださっています」
そう言ってもラムクリシュナ医師は困ったような表情を浮かべたままなので、話題を変えた。
「今回の予防接種に私も加えてくれて感謝しています。首都まで戻るのは大変ですしね。金欠なので色々と考えないといけなくて。マダニですが、私も野外採集旅行中によくたかられますね。こうして予防接種を受けて安心ですよ」
実は体にとりついたマダニは、蚊や南京虫と違ってすぐには刺さない。半日くらいは刺せる場所を探し回るものだ。なので、仕事を終えて家に戻ったらすぐに作業着を脱いで洗濯し、シャワーを浴びるように心がける事が大切だ。ちなみにマダニは成虫の大きさが四ミリくらいあるので見つけやすい。
ラムクリシュナ医師が照れて笑った。
「それは良かった。氷河のそばではさすがにマダニは少ないでしょうけれど、用心するに越した事はありませんしね」
視線を予防接種カレンダーに向けた。
「ジアルジアや回虫等の寄生虫の駆虫剤も、半年に一回の割合で飲むことを勧めます。今回の予防接種ですが、鳥インフルエンザや豚インフルエンザにも有効ですよ」
ゴパルが感心した。
「さすが万能ワクチンですね」
ラムクリシュナ医師が困ったような笑顔を受かべた。
「万能ではありませんよ。感染しても重症化する確率が低くなる程度です。日頃の健康管理を怠ってはいけませんよ、ゴパル先生」
ゴパルの次はカルパナだった。これもすぐに終わり待合室へ戻ってきた。ソファーに寝転んでいたサビーナが起き上がり、軽く背伸びをする。
「カルちゃんお疲れ。それじゃあ、ゴパル君はあたしのスクーターに乗って帰るわよ」
レカもゲームを中断してソファーから立ち上がり、同じように背伸びをした。
「んんー……わたしはクソ兄を待ってるよー。ゴパルせんせーは、この後は美味しい料理を食べ放題なのねー、うらやましいいい」
ゴパルが首を引っ込めて両目を閉じた。
「クシュ教授の説教を聞きながらの食事になると思いますけれどね」




