交流会が終わって
傍から見ると罵り合いにしか見えない交流会が終わった。クシュ教授を含めた五人の参加者が一転して和やかな談笑をはじめ、紅茶やコーヒーを飲みながら自室へ戻っていく。
めちゃくちゃに書き殴られているホワイトボードを乾いた雑巾で掃除しているゴパルに、目を点にしたままの協会長が感想を述べた。
「終了時間になると同時に討論が終わりましたね。しかもその後は、人が変わったみたいに和やかな雰囲気になりました。いつもこうなのですか? ゴパル先生」
ゴパルがホワイトボードの掃除を終えて、ホテルのスタッフに引き渡しながら苦笑して肯定した。
「いつもこんな感じです。すいません、お騒がせしてしまいましたね」
協会長が点にしていた目を正常な状態に戻して、少し微妙な表情ながらも微笑んだ。
「外国人観光客の方が騒がしいですので、その点は気にしていませんよ。さて、この後はアバヤ先生の引率でポカラ観光ですね。戻ってから夕食会が始まりますので、その準備を始めておきます」
ちょうどその時、カルパナが会議室へ入ってきた。キョロキョロしてから少し残念そうにしている。
「あらら……交流会はもう終わっていたのですね」
協会長がカルパナに軽く挨拶してから、受付カウンターに入って仕事を始めた。交流会の様子を見続けていたので、仕事が溜まってしまったらしい。
アバヤ医師がトイレから戻ってきたのを見て、カルパナが軽いジト目になった。
「アバヤ先生。マダニ感染症の予防接種を息子さんに丸投げしたそうじゃないですか。今日は大勢が予防接種を受けるんですよ。息子さんだけに任せて、こんな所で遊んでどうするんですか」
しかしアバヤ医師は平然としてニヤニヤ笑ったままだ。
「くっくっく。注射を打つ担当は一人の方が良いんだよ、カルパナ君。二人以上になると、どちらが痛くなく注射を打ったかで人気投票をするだろ」
ドヤ顔になって太鼓腹を張るアバヤ医師だ。
「現院長の息子よりもワシの方が腕が良いなんて知れたら、病院にとって問題になりかねない。そうなったら、ゆっくりと人間観察しながら食事とかできなくなるだろ」
カルパナが呆れた表情になっていく。険悪な雰囲気になってきたので、ゴパルが話を変えた。
「カルパナさん。そろそろ有機農業の国際会議に参加するそうですね。確か米国でしたっけ」
カルパナが素直にうなずいた。機嫌も直ったようだ。
「はい。来週、渡米します。特にこれといった発表はしないんですけれどね。ジェシカさんに会ってきます」
アバヤ医師が何か思い出したようだ。真面目な表情になってカルパナに視線を向けた。ほとんど一本につながっている彼の眉が、ピンと伸びている。
「米国では今、インフルエンザが流行しておるぞ。万能ワクチンはもう既に打ち終わっているから、病気にかかっても大した事にはならぬはずだが……気をつけるに越したことはないぞ」
インフルエンザには多種多様な型がある。しかも変異が頻繁に発生する。そのため、個別の型を対象にしたワクチンでは、ウイルス型に合致していないと効果が期待できない。その場合、ワクチンを打ったのに感染発症する事になる。
しかしよく調べるとインフルエンザのウイルスにはほとんど変異が起きない部位がある。その部位を対象にしたワクチンが万能ワクチンだ。ワクチンと名前がついているが、予防接種としても有効である。
その万能ワクチンを打っても、感染を完全に防ぐことはできない。そのため、アバヤ医師がカルパナに指摘した事は以下のようなものであった。
とりあえず毎年万能ワクチンを打つ。
インフルエンザを発症した人の近くには行かない。
目、鼻、口を通じてウイルスが感染するので触らない。
規則的に手を洗う。
発病した人と一緒の部屋になった場合には、机やイス等をよく拭いて消毒する。
アバヤ医師がそれらの項目を挙げてから、軽く肩をすくめた。
「それでも感染して発症してしまった場合には、人に接触しないようにする事だな」
咳やくしゃみが出る時は、使い捨てのマスクをつけてウイルスを飛散させない。一日に何度も手を洗う。十分な量の水分を摂る。
そう言ってから、アバヤ医師がやや真面目な表情になった。
「カルパナ君は基本元気だから、抗インフル薬の服用は必要あるまい。医者に相談して決めればよかろう。ただ、抗生物質はウイルスには効かぬから服用しても意味が無いぞ。細菌やカビによる合併症になる恐れがある場合に、これも医者と相談して決めた方が良いだろうな」
そんな指示をカルパナに出していたアバヤ医師だったが、クシュ教授が手を振って呼んだので中断した。どうやら暇つぶしだったようだ。ニコニコの笑顔をカルパナとゴパルに向けた。
「ではワシは引率の仕事があるのでこれで。息子のラムクリシュナに仕事頑張れと言っておいてくれ」
微妙な表情で見送るゴパルとカルパナであった。クシュ教授も太鼓腹をポヨポヨさせながらアバヤ医師につき従っていく。
その横顔を見たゴパルがジト目になって注意した。
「クシュ教授。カルパナさんが来てくれたので、これからミカン園に行こうかと考えているのですが……クシュ教授は観光ですか」
クシュ教授がニッコリと微笑みかけた。
「ミカン復活事業は、育種学研究室のゴビンダ教授の領分だろ。僕が直接関わっては何かと都合が悪くなるものだよ。ゴパル助手なら泡末研究者だから特に問題は無い。しっかりと撮影して記録を取ってきなさい」
そう言い残して、スキップしながら他の参加者と一緒にホテルの白いバンに乗車してしまった。運転手はいつもチップを渡している男スタッフだったので、チラリとゴパルの顔色をうかがっている。ゴパルが両目を閉じて降参の仕草をして、運転手に応える。
「良い観光を。私はしっかりと記録してきます」




