隠者の庵
その頃パメの奥にある隠者の庵では、隠者と修験者達が今日の弁当をカルパナから受け取っていた。新しく加わった修験者を見た隠者が、穏やかな笑みを浮かべて弁当箱の重さを確かめている。
「移動床屋に任せればよかったんだがね。せっかくなので、我々でよってたかって新入りの頭を坊主にしたよ」
何がせっかくなのかの説明はしないままで、弁当箱を脇に移動させた。
移動床屋というのは、その名前の通り路上で散髪をする床屋だ。ヒンズー教では髪は不浄なモノなので、坊主頭にそり上げる聖者や修験者が多い。司祭も祭祀に臨む際には坊主頭にする。ただし、脳天だけはチョロっとだけ髪を残すが。
カルパナがその新人修験者の坊主頭を見て、気の毒そうな表情になった。ちなみに修験者はこの寒い中でも全身白塗りの全裸で頑張っている。
「もう少し、見栄え良く剃った方が良かったのではありませんか? 隠者さま」
散髪素人の隠者と修験者が剃ったので、所々に剃り残しがある。しかし隠者は愉快そうに笑うだけだ。
「本人は喜んでおるよ。それで十分だろう。それはそうと……」
隠者の琥珀色の瞳が、カルパナを穏やかに見据えた。
「今日からマゲサンカランティ祭だな。サビーナやレカも食い物屋台を出すと聞いたが、カルパナも何か農産物を屋台で売るのかね?」
カルパナが残念そうな表情になり、首を振って否定した。
「いいえ……種苗店の改装工事がありますので。今もキノコの種菌作りのための内装工事で手一杯です。来年は干しキノコを屋台で売ってみたいですね」
隠者が切れ長の目を細めて頬を緩めた。
「ラムラム。そうなる事をワシも祈っておこう。屋台で何を売ってもワシは構わぬと思うが、やはり誰に対して売るのかを明確に考えた方が売りやすいだろうな」
基本的なマーケティング方法では、どれだけ多くの人に売るかを考える。
レストランの場合では、どれだけ多くの人に店へ来る気にさせるか。商店街では買い物に来る客をどれだけ増やす事ができるか。といった具合だ。
「しかし、特定の人を狙い撃ちにする商売の方法もある。屋台のように多くの商品を陳列できない場合では、特に有効だ」
隠者が穏やかな口調で話を続けた。
「干しキノコを売るのであれば、キノコ好きが飛びつくような工夫が欠かせぬだろうな。同時にカルパナと客とが直接顔を見て商談するのだから、客が笑顔になるような商品であればさらに良かろう」
カルパナが真面目な表情になって聞いている。
「少数の愛好家が喜ぶような干しキノコですか……」
隠者が穏やかに微笑んだ。
「むしろ、たった一人に向けてピンポイントで売るくらいの心積もりだな。恋人に送るラブレターのようなものだよ。万人向けのラブレターは、結局は合掌しての挨拶程度しか効果はないものだ」
言外にゴパルとの関係は進展しているのかと聞いているのだが、カルパナには通じなかったようだ。ひたすらに真面目な表情で考えている。
「そうですね。大勢が参加した会議で決まった事って、だいたいが万人向けになっていますものね」
腕組みをしてさらに考え込んでいく。
「今日の祭りの屋台も、ほとんどが野菜果物や自家製アチャールを売る人ばかりのようですし……コーヒーや紅茶園も屋台を出すそうですが、ぱっとしない印象ですね」
隠者が軽く天を仰いで何かつぶやいてから、視線をカルパナに戻した。
「仕事中毒もほどほどにな。紅茶とコーヒーだが、安い既製品があるから売れるとは思えぬよ。ポカラの外から来た客にも大して売れぬものだ」
隠者は元々、観光事業には乗り気ではない。カルパナもその事を理解しているのだが、とりあえず聞いてみた。
「やはり、まず最初に私達ポカラの人間が親しむべきなのでしょうね」
鷹揚にうなずく隠者だ。
「うむ。ポカラの人間が自発的に参加して、外部に向けて発信するように場を整えると良かろうな。ホテル協会のポータルサイトのような場だな。その中から勝手に売れ筋商品が生まれてくるものだよ」
どうやら隠者はホテル協会のポータルサイトを見ているらしい。
「後は、商標のようなシンボルやブランドを作って飾り立ててやれば、勝手に口コミとネットを介して広がっていくだろう」
そう言ってから、隠者が面倒臭そうな表情に変わった。
「ラビン協会長め。問題行動を起こした客を容赦なくブラックリストに入れておるそうだな。協会としては正しいんだが、やり過ぎると己の首を絞める事にもなるのだがなあ」
カルパナは詳しくなかったので、簡単に説明をする隠者だ。隠者の癖に情報通である。
それによると、ポカラとジョムソンのホテル協会とアンナプルナ街道、サランコットの民宿が観光客の行動を記録して共有し始めたらしい。
具体的には客がいつ何を食べたか飲んだか、店での滞在時間、支払金額、顔写真、使用したクレジットカードといった電子決済の種類、同行者数、宿泊日数といった情報を解析して共有している。これらの情報を基にして、客に沿ったサービスや商品販売、それらの宣伝を行うとか。
問題行動を起こした客はブラックリスト入りして警戒するという事も隠者は知っていた。宿泊や食事の予約を受け付けないようにするらしい。
そんな話をしながら隠者が弁当箱を開けて、カリフラワーの香辛料炒めの香りに頬を緩めた。
「ホテルやレストラン経営者の会合で決まったと聞いた。どうせ酒でも飲みながら決めたのだろうさ。人というのは、酒を飲むと本性が表に出やすくなるものだからな」
その後、山から下りてきたゴパルをルネサンスホテルで出迎えるカルパナであった。今回もまず最初にKL実証試験の畑を見て回っていく。パメの段々畑を一緒に上ったゴパルが、小麦畑の様子を見てほっとした表情を浮かべた。
「順調に育っていますね。病気や害虫も今の所は見当たらないかな」
ゴパルが網柵の外から小麦畑をスマホで撮影する。乾期なので雑草も少ないようだ。段々畑の縁や石垣に生えている雑草も短く刈り取られていた。家畜の餌に使われたのだろう。
カルパナが自身のスマホを取り出して作業記録を見ながら説明してくれた。
「麺用の小麦ですが、今は葉が三枚出ている段階ですね」
カルパナによると、ポカラの東端にある養鶏企業のバルシヤ社長から鶏糞肥料を買っているそうだ。それにKL培養液と光合成細菌を散布して悪臭を抑える。そうしてから、畑に250キロ撒いていると話してくれた。
「後でゴパル先生のアドレスにファイルを送信しますね」
この小麦畑の総面積は二ロパニ(約千平方メートル)ある。
他にニンニク畑やタマネギ畑にも行き、撮影するゴパルである。ニンニク畑では、土ボカシを一株当たり百グラムほど追肥したという事だった。
カルパナがスマホを操作して、ゴパルのスマホ宛に作業記録のファイルを送信した。特に何も質問が浮かばないので、素直に受け取るゴパルである。
カルパナがフェワ湖の方角に顔を向けてからゴパルに振り返った。ニコニコしている。
「今日はマゲサンカランティ祭です。屋台がたくさん出ていますから、ちょっと見に行きませんか? サビちゃんとレカちゃんもそれぞれ屋台を出していますよ」
ゴパルもフェワ湖の方角を見てから、穏やかにうなずく。
「そうですね。ではカルパナさんの仕事の邪魔にならない範囲でお願いします」




