待ち時間の雑談
早速ゴパルが試験管にチャンと日本酒を注ぎ、それらを恒温機に差し込んで温め始めた。この機械は電熱ヒーターで温めた水に試験管を漬ける仕組みなので、いわゆる湯煎に近い。
次第に低温蔵にチャンと日本酒の香りが漂い始めていく。温め終わるまでチヤをすすって待つ三人であった。時間潰しのためにゴパルがアルビンに聞く。
「今は閑散期という事ですが、それでも結構居ますよね。民宿としては、それほど問題はないのでは?」
アルビンが大きな毛糸の帽子をポンポン片手で叩きながら、少し困ったような笑みを浮かべた。
「部屋を予約しやすい時期ですんで、悪質な旅行会社が暗躍しやすくなりますかね。保険金詐欺とか考えてる連中も居ますし」
協会長も困った表情になって、アルビンの話にうなずいている。
「旅行会社とレスキュー会社と病院とが結託していますよね。政府と警察が厳しく取り締まっているので、かなり減ってはいますが……それでも時々、保険金詐欺事件が起きていますね」
典型的な事例としては、旅行会社が観光客に劣悪な食事を提供して病院送りにする事が多い。軽症の食中毒であってもレスキュー会社がヘリコプターを使って緊急搬送を行う。
病院では過剰な治療を行い、高額の医療費を請求する。旅行会社は事前に観光客に対して医療保険をかけてあるので、保険会社に高額の保険金を支払うように請求をするという感じだ。保険金は病院と緊急搬送したレスキュー会社に支払われ、旅行会社は病院とレスキュー会社から報奨金をもらう。
請求される保険金の額は平均して570万円くらいで、軽症であっても240万円くらいに達する。さらに悪質な事例では、病院側が一件の緊急搬送に対して二通の保険金請求をするものもある。
さすがに保険会社が怒り、ネパール政府に圧力をかけた。その結果として協会長が言ったように、政府が緊急搬送と医療行為を制限する事態になっている。
協会長が肩をすくませて力なく微笑んだ。
「重篤な症状の患者以外には緊急搬送が認められなくなってしまいました。保険金の請求にも厳格な審査を通す手続きになりましたね。ホテル協会としては困った状況です。客足が遠のくには十分な理由になります」
アルビンがチヤを飲み終えて、空になったグラスを机の上に置いた。恒温機の中で揺られている試験管を眺める。
「食中毒もそうなんですが、高山病って急性症状があるんですよね。さっきまで元気だったのに、突然意識不明の重体に陥る人って居るんですけれどねえ……」
場の雰囲気が沈んできたので、ゴパルが恒温機に手を伸ばした。
「そろそろ温まってきたかな。少量で申し訳ないのですが、どうぞ試飲してください。できれば感想も述べてもらえると助かります」
真っ先にアルビンが試験管を二本引き抜いた。気に入っているようだ。一重まぶたの目をさらに細めている。
「それじゃあ早速いただきますかね」
続いて協会長が試験管を二本手に取った。香りをかいで嬉しそうな表情を浮かべている。
「どちらも良い香りですね。では、私も早速試飲してみましょう」
ゴパルが最後に残った試験管を二本引き抜いて、恒温機のスイッチを切った。
「冷えないうちにどうぞ」
アルビンが一気飲みして満足そうな笑みを浮かべた。
「熟成がちょっとだけ進んだような気がしますよ、ゴパルの旦那」
協会長も試飲を済ませて、穏やかな笑顔で同意した。
「日本からの輸入日本酒とは風味が少し異なるんですね。少し雑味と、ぬか臭がして、清酒と呼ぶにはもったりした味わいですが……これはこれで美味しいと思いますよ」
さすが協会長である。早速スマホにメモを取るゴパルだ。
「詳しい評価をしてくださって、ありがとうございます。さすがですね。米の種類が違いますし、精米歩合も悪いので本場の日本酒には及びませんよね」
そう言って二本の試験管を飲み干した。アルビンは意外そうな表情をしている。
「へえ、そうなんですか。それじゃあ、コレは日本酒もどきってヤツですかね」
協会長が穏やかに微笑んだ。
「酒用の日本米を使っていないのでしたら、もどきですね。それでも、ポカラの地酒として考える価値はあると思いますよ。もう少し早く試飲していれば、明後日から始まるマゲサンカランティ祭に出品できたのですが」
ゴパルが首をかしげたので、軽く説明する協会長だ。
「ヒンズー教の祭りで、ビシュヌ神と音楽の神を祀ります。主にテライ地域で盛んですね。マグ月の初日から始まる長い祭りです。ネワール族とタル族が特に盛大に祝いますね。飲食の屋台がたくさん並びます」
マグ月は西暦太陽暦の一月中旬から二月中旬までの期間を指す。太陽が北の空へ戻り始める月とされていて、寒さが終わって暖かくなっていく。
ゴパルもヒンズー教徒なので基本的な内容は知っているのだが、へえ……と聞いている。彼に代わって、アルビンが協会長に尋ねた。
「って事は、明日にはポカラへ戻るんですか? 忙しいですね」
協会長が軽く首を引っ込めて目元を緩めた。
「実行委員会が全てやってくれていますよ。しかしそれでも関連イベントの設営に立ち会う必要がありますので、ここには一泊しかできませんね」




