低温蔵
サビーナやカルパナが心配した通り、ABCでは氷点下の日が続いた。ラメシュ達は全員首都に戻らせていたので、ここに残っているのはゴパル一人だけだ。低温蔵の暖房設備の稼働状態を確認してから、外に出て雪空を見上げた。
(設計通りに温度調節できているのは良い事だけど、寒いのは苦手だなあ……)
この時期は乾期でもあるので普段はよく晴れているのだが、今日はどんより曇った灰色の空だ。アンナプルナ連峰やマチャプチャレ峰も雪雲に覆われていて見えない。雪も結構積もっていて、一面の銀世界になっていた。
寒くなって低温蔵の中へ戻ろうとした時、雪の中から登山姿でリュックサックを背負った協会長が姿を見せた。ゴパルを発見して、穏やかに手を振って挨拶をしてくる。
「こんにちは、ゴパル先生。よく降る雪ですね。道に迷っている観光客が結構出ていましたよ」
ゴパルが驚いて出迎えた。
「わあ、こんな所までご苦労様です。冷えるといけません、どうぞ低温蔵の中へ入って雪を落としてください」
いつの間にか民宿ナングロのアルビンもやって来ていて、ゴパルと協会長にチヤを差し出した。
「少し遅れましたね、ラビン協会長さん。雪が深かったですか」
ゴパルに続いてチヤを受け取った協会長が穏やかに微笑んだ。リュックサックをまだ背負ったままなのだが平気な様子である。
「迷子の観光客を探す手伝いをしていまして。ここで飲むチヤは格別ですねえ」
アルビンがニヤニヤして答えた。
「脱脂粉乳とクズ茶だけどね。水だけは氷河から引いて、ちゃんとろ過処理してるから上等ですけどね」
ゴパルが研究用の機器の調整をしてから協会長に聞いた。
「わざわざこんな寒い時期に来なくても良かったのではありませんか? ラメシュ君達も首都に戻っていますし、今は特に大きな研究は行っていませんよ」
協会長がようやくリュックサックを床に下して、肩と首を回しながら答えた。いつもはスーツ姿しか見た事がなかったので、登山服姿は新鮮に見えるゴパルであった。
「この時期は、短い期間ですが閑散期なのですよ。年末年始のイベントと旧正月との間ですからね。遠くへ遊びに行くには良い機会です。私はまだ完成した低温蔵を見ておりませんでしたので、こうして見物に来たという次第ですよ」
そう言って、壁に貼られてある訪問者向けのポスターを見て口元を緩めた。ゴパルも見て、軽く首を引っ込めて恐縮している。
「ラメシュ君達が作ったんですよ。ここはアンナプルナ街道の終着地ですので、暇を持て余す観光客が多いはずだと言いまして。低温蔵で行う実験や事業の簡単な説明を、そのポスターに書いたそうなのですが……」
協会長がチヤをすすりながら、頬を緩めた。少し眠たそうな一重まぶたの黒い瞳を細めている。
「親しみがわいて良いと思いますよ。今は研究を中断しているのですか?」
ゴパルもチヤをすすりながら素直にうなずいた。
「そうですね。ワインのサンプルを保管したのですが、他には特にする事はありませんね」
ここでアルビンがゴパルに視線を投げた。彼の巨大帽子は完全に冬仕様になっていて、大きさも最大になっていた。
「日本酒やチャンのサンプルが残っていましたよね、ゴパル先生。せっかくですからラビン協会長さんにも試飲してもらってはどうですか?」
ゴパルがニッコリと笑って同意した。すぐに保温庫を開けて確認する。
「そういえば、まだ飲んだ事がありませんでしたね。一般の人からの感想を集めるために置いておいたサンプルは……あった。結構飲まれてしまっていますが、まだ残っています」
保温庫からガラスのビーカーに入った日本酒とチャンを取り出した。半分の半分くらいにまで量が減っている。
チャンはネパール版のどぶろくなので、白い部分と透明な上澄み部分とに分離ていた。しかし、ビーカーを振るとすぐに混ざる。日本酒はろ過をしてあるので透明だ。
アルビンが目を逸らして弁解した。
「ほら、欧州じゃ『満杯の酒だると酒好きの女房を同時に持つ事はできない』って言うそうじゃないですか。酒だるの量が減るのは自然の摂理ってもんですよ。ははは」
飲んだのは女房ではなくてオッサンどもなのだが、聞き流すゴパルであった。最後に栓を開けて臭いを確認した。
「品質は大丈夫ですね。ラビン協会長さん、温めて飲みますか?」
協会長が少し考えてから答えた。息が白い。
「そうですね。では温めてくださいますか。私達タカリ族は、トンバという温かい酒をよく飲むんですよ」
トンバとは、発酵させたシコクビエに熱湯を注いでストローで吸う酒だ。チベット系の民族が好んで飲んでいる。風味はシコクビエの蒸留酒に似ていて、あっさりして飲みやすい、やや甘口の醸造酒だ。ただし店によっては不衛生な所もあるので、事前に店の評判を聞いてから行くと健康のために良いだろう。




