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アンナプルナ小鳩  作者: あかあかや
とりあえず使ってみた編
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バクタプール酒造

 翌朝、ゴパルは外国人向けのツーリストバスに乗って首都へ向かった。バスはタメル地区までしか行かないので、そこから路線バスに乗り換えてバクタプール市へ向かう。

 タメル地区はゴパルの家があるバラジュ地区に近いのだが、家には戻らない事にしたようだ。首都に到着した事だけを家族にチャットで伝える。

(私の部屋が無いって言ってたしなあ……それにサンプル採取は早めに済ませた方が良いし)

 できれば、今日中にABCに向けて陸送でサンプルを送りたい所である。今日は微生物学研究室に誰も居ないので、サンプルを保管するのに不安があるためだ。


 首都の燃料不足と計画停電は、道路が復旧した事によってかなり緩和されていた。それでも、道中見た印象では仮復旧にしか見えなかったが。雨期の土砂崩れで倒壊した送電鉄塔も、まだ全て復旧していない。

 ニュースによると、水力発電所に詰まっている土砂や流木の除去作業も遅々として進んでいないらしい。

 現状はインドからの燃料を積んだトラックと、パイプライン、それに送電によって何とかなっているという情報である。中国からは道路や送電網が酷く崩壊したままなので、復旧作業中という事だった。

 最新情報をスマホで見ながら、小さくため息をつくゴパルだ。今はバクタプール市内行きの路線バスに乗っている。今回は荷物が少ないので移動も楽な様子だ。

「クシュ教授の先見の目は確かだったという事ですね……あまり嬉しい話ではありませんが」


 さて、いつも通りに路線バスをさらに乗り換えていく。バクタプール酒造の門の前に到着した頃には、昼過ぎになっていた。

 路線バスの停留所に居る物売りから、ピーナツやスナック菓子を買って腹の足しにしていたゴパルであったが、さすがに腹が空いているようである。顔に精彩が無い。


 出迎えたカマル社長も、その表情を見て同情している。

「お腹をすかせた山羊みたいですよ、ゴパル先生。軽食を用意しましょう。サンプルの採取仕事が終わったら食事にしてください」

 ゴパルが頭をかきながら感謝した。

「助かります……一応バスの中で袋麺を食べてはいたのですが」

 チャットで事前に知らせてはいたのだが、改めてカマル社長に不手際を謝るゴパルだ。しかしカマル社長は穏やかに笑うだけだった。

「スルヤ先生の親戚が危篤ですので仕方がありませんよ。ラメシュ先生もポカラでシイタケ栽培の段取りでしょ。ダナ先生は低温蔵ですし。運が悪かっただけですよ」

 クシュ教授はバングラデシュに急用で出張中である。その彼はさっさとテレビ電話を使ってカマル社長に謝罪済みだ。


 ゴパルが恐縮しながらスマホで最新情報を更新した。

「ラメシュ君は、セヌワでシイタケほだ木の設置作業を予定通り行うそうです。思いの外、ほだ木が重かったそうで疲れたとか書いていますね」

 カマル社長がうなずいた。

「それは良かった。では、私達もそろそろ仕事を始めましょうか」


 カマル社長に案内されて、白い作業着に着替えてから酒造所の中へ入る。一歩中へ入ると、ワインの発酵臭がゴパルの鼻をくすぐった。思わず頬を緩めるゴパルだ。

「この香りですと主発酵が完了した段階ですね。良い香りに仕上がっていますよ、カマル社長さん」

 カマル社長が仕事をしている作業員達に軽く手を振って挨拶してから、ニコニコした笑顔をゴパルに向けた。

「でしょう? 今年の主発酵にはちょいと自信があるんですよ」


 バクタプール酒造では赤ワインにはテンプラニーリョ品種の黒ブドウを使い、白ワインにはトレビアーノ種を使っている。発泡ワインもトレビアーノ種だ。これらの主発酵が完了した段階である。

 完了の目安としては、アルコール度数が発酵前のブドウジュース糖度値の半分まで上がれば良い。発酵中は二酸化炭素ガスも発生するので、完全に糖がアルコールへ変換されているわけではないが。酒造所によっては、糖を残したままで発酵を終わらせる場合もあるのだが、このバクタプール酒造ではそこまでの技術はまだない。

 発酵が完了したら、液体と固体とを分離する。この時に、圧力をかけずに自重だけで自然に流れ出た液体を『フリーラン』ワインと呼ぶ。高級ワインではもっぱらこれを使っている。

 一方で圧力をかけて搾った液体は『プレス』ワインと呼ばれる。これはブレンド用のワインとして使われる事が多い。この辺りはオリーブ油と同じようなものだ。

 『フリーラン』も『プレス』もフィルターでろ過されてから二次発酵の工程に移る。バクタプール酒造ではステンレスタンクに移して二次発酵させている。

 これは『シャルマ―方式』と呼ばれ、アスティー等の安価なイタリア産発泡ワインで多く採用されている。なお、『フリーラン』赤ワインのタンクには、微生物学研究室が開発した乳酸菌を添加している。


 そのタンクからサンプルを採取したゴパルが、少し緊張気味でカマル社長に話しかけた。

「上手く香りが出ると良いですね」

 カマル社長が真面目な表情になってうなずいた。

「そうですね。ヒンズー教にも仏教にも酒専門の神様が居ませんので、ここだけはギリシャの神様に祈っていますよ」


 赤ワインに乳酸菌を添加して、液温を十五度から十八度程度にする。さらにペーハー値を3.1から4.0の間に維持すると、運が良ければマロラクティック発酵が起きる。

 この発酵によってリンゴ酸が乳酸と二酸化炭素に分解され、酸っぱさが弱まる代わりに様々な香りが出てくる。高級ワインで重要視される発酵工程だ。

 ただ現状ではバクタプール酒造は、サビーナや給仕長が指摘するようにガブ飲み用の安いワインしか製造できていない。

 それを何とか打破したいというカマル社長の強い要望に応えるために、ゴパル達が研究しているのがこの乳酸菌だ。もちろん、ブドウ園の質も向上させないといけないのだが。

 ちなみに、このマロラクティック発酵それ自体はワイン以外でも起きる。極端な話、KL培養液でも起きたりする。たまにワインの香りがするKL培養液ができるのだが、微生物の気まぐれとはこのようなものだ。


 この二次発酵を終えると熟成に移行し、最低一年間ほど熟成させてから販売される。長期熟成に耐えるブドウ品種を使っているので、低温蔵でも少量を保管してどのように変化するのか調べる事になっている。

 ろ過で分離されたカスと、タンク内で沈殿するおりは家畜の餌に使われている。ブドウの搾りカスは再度発酵させて蒸留し、マールにしている。ブドウの種も回収して乾燥させた後で搾り、グレープシード油として商品化できないか研究中だ。


 赤と白、それに発泡ワインのサンプルを採取し終えたゴパルが、早速カマル社長に頼んで宅配サービスに渡した。保温箱を使ってABCの低温蔵まで宅配する契約だ。

 普段着に着替えてから事務所に戻り、宅配サービス員がサンプルを運んでいくのを見送る。ゴパルがほっと安堵の表情を浮かべた。

「明日、私も飛行機でポカラへ向かいます。その際にサンプルを持っていきますが、宅配サービスの陸送でも問題なく運べると分かれば楽になりますね」

 バクタプール大学の微生物学研究室にも同じサンプルを保管する。分析機器は研究室の方が充実しているので、実際の研究は大学で行う。低温蔵はあくまでも保管用だ。まあ、それだけではもったいないので、簡単な検査や実験を行っているのだが。


 カマル社長が軽食のジェリプリと野菜のタルカリ、ダルを応接間に準備しながらゴパルを手招きした。

「明日戻るのですか。忙しいですね。まずは軽く食べていってください。チヤも用意しますね」

 ゴパルがスマホでクシュ教授に報告を済ませて、頭をかいて感謝した。

「すいません、わざわざ。これは美味しそうですね。いただきます」


 その後、仕事を終えてバラジュ地区の家へ戻ったのであったが、やはり部屋は用意されていなかった。仕方なく居間で寝る事になったゴパルである。

 ゴパルが食事を終えて、居間のソファーに座りながら文句を垂れた。

「かあさん。今日戻るって伝えていたはずなんですが」

 ゴパル母が女の使用人と目くばせをしながら不敵に笑う。

「カブレから親戚の娘が米国へ行くのよ。飛行機が朝の出発だから、ゴパルの部屋を使ってもらっているの。この寒いのに安宿に泊まらせるほど薄情者じゃないでしょ、ゴパル」

 そう答えられては、ぐうの音も出せない。

「その娘さんは、今はどこにいるんですか? 姿が見当たりませんが」

 ゴパル母が呆れた表情になった。

「買い物に決まってるでしょ。米国の服は袖や裾が長すぎるのよ。サイズも巨大なものばかりだし」

 ゴパル父がウィスキーを手にして居間へ入ってきた。ニコニコしながらゴパルにグラスを渡す。

「そういう事だ。今晩は諦めて酔っぱらって寝てろ」

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