年末のABC
ゴパルがポカラでの仕事を終えてABCへ戻ってくると、博士課程のスルヤが下山準備を完全に整えて待っていた。低温蔵のドアの前で仁王立ちしている。
「もうっ、遅いじゃないですかゴパルさん」
ABCに着いたばかりのゴパルが頭をかいて謝った。二人ともに冬用の防寒服を着ている。
「ごめんごめん。ポカラの方が回線速度が速いから、いくつか仕事を済ませてきたんだよ。で、もう下山するのかい?」
スルヤが素っ気なくうなずいた。身長が百六十センチほどでこじんまりとした体型なのだが、四角い大きな顔を膨らませて、垂れ目を大きく見開いている。
「当然です! もう年末ですからね、今から下山しないと、新年パーティの準備が間に合わなくなるんですよ」
この場合は西暦太陽暦の新年である。ネパール暦の新年は四月中旬だ。
そう言ってスルヤが、引継ぎを要領よく済ませた。リハーサルを何度かやってたのだろうなあ、と想像するゴパルだ。
低温蔵の現状を把握したゴパルが、穏やかに微笑んだ。
「了解。後は私に任せなさい。チヤでも一杯飲んでいくかい?」
「いいえ。一刻も早く下山します! では」
そう言い残して、足早に低温蔵から出ていくスルヤであった。
その後ろ姿を見送ったゴパルが、軽く肩をすくめる。外は雪が積もっていて銀世界だ。粉雪がアンナプルナ内院を吹き流れる気流に乗って、右往左往している。
「せっかちだなあ、もう。どうせ急いでも今晩はジヌー泊まりになるのに」
今回の年末年始は、ゴパルだけがABCに残って研究を続ける事になっていた。クシュ教授からそう命令を受けたのだが、予想していた事態だったので素直に従っているゴパルだ。
ゴパルの家族も予想していた様子で、スマホ画面に映っている兄のケダルも特に文句を言ってこない。今はゴパルがABCからテレビ電話をスマホを使ってかけていた。
「金欠のゴパルが首都に戻ってきても、俺に金を恵んでもらうだけだしな。乞食は大人しく氷河のそばで冬眠してろ」
ゴパルがぐうの音も出せない表情をしている。
ここでは通信状況がそれほど良好ではないので、テレビ電話も動画ではなくて十秒ごとの静止画像になっていた。そのゴパルの表情が、ちょうどケダルにも届いたようだ。
おかげで、ケダルの表情が十秒後にニッコリ笑った顔に切り替わった。鋭い瞳が和らいでいて、がっしりとしたあごを右手でさすっている画像だ。
「ははは。博士のくせに情けない顔をするなって。家の事は俺に任せておけ、ゴパル。そこでゆっくり凍っていろ。では、民宿の人にもよろしく言っておいてくれ」
低温蔵の仕事をしているうちに大晦日の夜になった。ノートパソコンに記録している途中で日付に気がつくゴパルだ。
「あ……もうそんな日になったのか」
低温蔵では日本酒の微生物活性の研究や、長期熟成の実験をしていた。ちなみにチャンはあれから二回ほど仕込んでいる。その種菌の培養もしていた。
外国人やネパール人の見学客もやって来るので、彼ら向けに簡単なポスターも作成していた。ABCで長期滞在する外国人観光客は、基本的に暇なので低温蔵によく顔を出してくるのだ。
よくある質問についてもポスターに書いて答えている。
Q:微生物の採集という事で、土や葉や花に果実等を手当たり次第に調べていますが、ぶっちゃけ成果は出ているのですか?
A:失礼な。KLという成果が出ています。ですが、採集してもほとんどは無用な微生物ばかりですね。
それに培養できない微生物がほとんどを占めています。培養できる微生物を見つけて、有用であるかどうかを調べていますよ。
Q:やはり無駄金と無駄な労力を使っているのですね。有用であるというのは、具体的にどのような事をさしているのですか?
A:言い方に悪意が混じっていませんか。微生物が作り出す天然の有機化合物は、複雑な構造をしている事が多いですね。人工的に合成できない化合物も多いのですよ。
用途としては抗菌剤、抗がん剤、抗寄生虫薬、免疫抑制剤などがあります。酒のような食品向けでは、香りや旨味成分の追加や増強が研究されていますね。
Q:人工的に化学合成できないとか草が生えますね。そんなモノ探して何が楽しいんですか?
A:仮説を立てて、実験をして確かめて、失敗して結果が出なければ再考する……というのが科学ですよ。失敗こそが財産なのです。っていうか、ここまで来て文句言うなら山を下りてカエレ。




