隠者の庵
いつものようにカルパナが弁当箱を届けにやって来た。ヘルメットを脱いだカルパナが、冬の乾いた風に乗って聞こえてくる歌声に聞き耳を立てた。
「あれ? ヴェーダだ」
隠者と数名の修験者達は、ヴェーダの詠唱をしていた。サンスクリット語による心地よい詠唱を、庵の外で静かに聞くカルパナだ。小さなバッグを肩にかけ直す。
(アラニヤカ・ヴェーダかな。確かこれは余人に聞かれると良くなかったような……詠唱が終わるまで待ちましょう)
ヴェーダはインドの古典で、ヒンズー教の祭祀の手順と意義について記されている。元々は口伝によって後世に伝えられていたのだが、今では文書化されている物が多い。
詠唱を聞いていたカルパナが、北の空を見上げて首をかしげた。 隠者が詠唱している内容は、荒天を鎮めるためのものだったためだ。
(今年の冬は天候が荒れそうなのかな? 気象予報局の長期予報だといつも通りという事だったけれど)
そのような事を考えていると、詠唱が終了した。隠者が庵の中からカルパナに声をかけてくる。気づいていたようだ。
「待たせたな。もう入ってきても構わぬよ」
「はい、隠者さま」
素直に返事をして、カルパナが庵の中へ静かに入り合掌して挨拶をした。
「お弁当を持ってきました。まだ熱いままですよ」
修験者達が嬉しそうに弁当を食べ始めたのを横目で見た隠者が、弁当箱を脇に移動させた。
今回は詠唱をしたせいなのか、四角形が黄色の線で額に描かれていて、その中に横線を二本描いている。漢字の『目』に似ている。眉間部分にも大きな赤色の印が塗られていた。
服装もサフラン色の道衣で、頭には同じ色の布がターバン状に巻かれていた。全体に布生地が厚くて冬仕様になっている。足元は庵の中なのでサンダルもスリッパも履かずに裸足だ。
「いつも済まぬな。ゴパルがアンナプルナ内院で無事に冬を越せるように祈っておいた。これからの季節は、西洋の太陽暦では年末年始になるからな。何かと忙しくなって、注意散漫にもなりやすいだろう」
そう言って、隠者が少し困ったような笑みを浮かべた。
「ワシの知り合いの風狂坊主からも頼まれておったのだよ。まあ、ヤツの天気予報ではそれほど荒天にはならぬそうだから、心配あるまい」
カルパナが隠者に感謝して微笑んだ。坊主という事はチベット僧かな? と感じたのだが、カルパナには面識が無いのでそのまま聞き流した。
「ゴパル先生を気遣ってくださり、ありがとうございます。年末年始はサビちゃんも大忙しですね。私とレカちゃんは、それほどでもないのですが……あっ、そうだ」
肩にかけていた小さなバッグを開けて、ごそごそし始めた。
「ピザ屋やレストランの割引券を何枚かもらいました。差し上げましょうか?」
隠者が穏やかな笑顔でうなずいた。
「そうだな。年明け後に顔を出してみよう。カルパナの話では揚げピザが美味いそうだな。楽しみにしておくよ」
ここで隠者が何か思いついたようである。カルパナに話し始めた。
「ワシからいくつか指摘をしておこう。サビーナに伝えておいてくれ」
隠者が話した内容は、次のようなものだった。
まず、客が求める物を作る事。客の好みは人それぞれで、季節や流行でたやすく変化するものだが、それでも真摯に対応する事。
「サビーナのわがままを押し通す事も時には必要だが、基本は客の要求に応える事だな」
カルパナが苦笑しながら了解した。
「私はサビちゃんのわがままが好きですよ。だけど……そうですね。私も気をつけて忠告するようにします」
隠者が満足そうにうなずいた。
「うむ。カルパナにも言えるのだが、汝らは女だ。ネパールでもインドでもそうだが、まだまだ女が先頭に立って仕事をするには困難な面が多い。仲間を増やしながら、集中して仕事をするようにな。さすれば、多くの壁を突破できるだろう」
カルパナが素直にうなずいたのだが、隠者が軽く肩をすくめた。
「分かっておらぬか。宣伝や会議、業務提携、投資の引き込み、過剰な情報交換、有識者の顧問、チャットのやり過ぎ……それらを控えろという事だよ」
隠者の二重まぶたの琥珀色をした瞳が鋭く光った。
「チヤ休憩ばかりしておっては、仕事に集中する時間がどんどん削られてしまうぞ」
カルパナが困った表情になったので、隠者が軽くため息をつきながらも鋭い視線を和らげた。
「カルパナが分身の術でも使えれば問題解決だが、そうもいくまい。今の状況では、これらを為すのが難しい事も分かる」
カルパナの反応を見ながら、ゆっくりとした口調で話を続ける。
「だが、心に留めておくことだ。これらは心労の種だからな。今の調子で色々な物事や人物、団体に首を突っ込み続けると、一年もせずに体調を崩してしまうぞ。そうなっては、バッタライ家を支える農家どもが大いに混乱する羽目に陥る。本末転倒だ」
カルパナが真面目な顔になって合掌した。
「はい。心に留めるようにします」
隠者が鷹揚にうなずいた。
「うむ。次にカルパナの種苗店や、サビーナのレストラン、レカの酪農場についてだが……往々にして汝らは現実から目を逸らしてしまいがちだな。今回も突然キノコ狩りなんぞに出かけおって。行くのは止めぬが、迷惑はかけぬようにな」
カルパナが首をすくめて恐縮した。
「すいません。気がついたらマルディのレクに立っていました……」
隠者がコホンと小さく咳払いをした。キノコ狩りを勧めた本人なので、説教する口調を弱めている。
隠者としてはマルディ登山といっても、深い森がある下キャンプと呼ばれる場所に行くとばかり思っていたのだろう。
ところが、カルパナ達は森林限界ラインにある上キャンプまで登ってしまった。さらに記念撮影をした丘は、上キャンプからさらに登った場所だ。ちなみに上キャンプがある場所は標高4500メートルだったりする。
「事業が順調に進んでいるかどうかは、本人にはなかなか実感できないものだからな。突発的に逃げ出す事それ自体は悪い事ではない。心がそう求めているのだからな」
そして、少しの間考えてから話を続けた。
「事業ごとに今後の進捗予定表を作っておきなさい。毎月振り返って確認すると良いだろう。進展速度が落ちた場合は、何らかの問題が生じているはずだ。手段が間違っているか、集中に欠けているか、まあだいたいこの二つのうちのどちらかだ」
カルパナがスマホを小さなバッグから取り出して、メモを取り始めた。
「はい、分かりました。隠者さま」
隠者が口元を少し緩めた。
「ふむ、多く話し過ぎたか。せっかくだから、もう少し付け加えておこう。黒字経営か赤字経営かを知る事は重要だ。だが、短期の赤字黒字にばかり目を向けていると、長期の経営が危うくなるものだ。ビシュヌ番頭にも伝えておくようにな」
カルパナがビシュヌ番頭の顔を思い浮かべたのか、反省した表情になった。いつも迷惑をかけていると自覚しているのだろう。
「資金繰りの問題ですね。客の要望に応えながらも、目先の利益には飛びつかない……という事でしょうか」
隠者が鷹揚にうなずいた。
「うむ。全てはバランスだ。経費を削減すれば短期的な利益は増える。従業員を最低人数しか雇わないとか……だな。だが、そうすると従業員にかかる負担が大きくなって、結果的に客の要求に応えられなくなる。これもバランスだな」
カルパナが真剣な表情で色々と思案し始めた。その様子を見ながら弁当箱を開ける隠者だ。ダルから立ち上る湯気に目を細めて、まだ考え込んでいるカルパナに軽い口調で告げた。
「ヒントは身近な所に転がっているものだ。サビーナの料理の師匠が昔言っていただろう。欧州のことわざには『妻と牛は身近な所から探せ』とかあるそうではないか」
カルパナがスマホをバッグの中に戻して、穏やかに微笑んだ。
「もう、隠者さまってば」
注釈:
マルディベースキャンプまでは、現在では民宿が少数ですがあります。
ダンプスの集落から登山を始めるのが無難でしょうね。アンナプルナ保護地域内ですので、事前に入域許可を得ておく必要があります。現地では地元民による関所もありますので、大人しくお金を支払いましょう。
深い森に入って10時間ほど登ると下キャンプに到着します。民宿がありますが事前予約をしておく事を勧めます。
ここから森林限界の手前ラインにある上キャンプまでは数時間の登りになります。ここにも民宿があります。標高が4500メートルもあるので、高山病には十分に注意してください。それと防寒対策も必須です。ここに泊まって、近くの丘まで夜明けや夕焼けを見に登るのが定番ですね。
丘から見た日の入りは次の動画で見ると分かりやすいかも。雲海の下にポカラがあります。背中側にマチャプチャレ峰がある構図ですね。11月下旬の撮影のようです。リンク税対策で冒頭のhを抜いています。
ttps://www.youtube.com/watch?v=ZQd5BcFvMFg
作中では、カルナちゃんの案内で地元民が使う近道を上っていたという設定にしています。ですので一日で上キャンプまで到着していました。
かなり険しい道ですので、くれぐれも真似しないように。ダンプス往復路を使ってくださいね。




