低温蔵
数日後、カルナがABCまで登ってきた。西暦太陽暦の十二月も半ばに差し掛かったので、かなり冷え込んでいる。
民宿街に滞在している観光客もすっかり分厚い防寒服を着込んでいた。それでも何名かは、外のベンチで日向ぼっこしながらティータイムをしている。観光シーズンの繁忙期が過ぎたようで、喧騒も和らいで落ち着いた雰囲気になっていた。
カルナもダウンジャケットを羽織って、厚手のズボンに登山靴の姿だ。冬用の手袋をして、マフラーを首に巻いている。息が白いのだが、さすがに高地に慣れているようだ。登ってきたばかりでも息が乱れていない。
親戚のアルビンに挨拶してから彼と一緒に、民宿ナングロの厨房に隣接している低温蔵に向かった。
「へえ。まともな造りね。掘っ建て小屋だとばかり思ってた」
ここでは当然のようにグルン語で会話している二人だ。アルビンが少し自慢顔になる。
「そりゃあもう、民宿街の全面協力だったからね。ゴパルの旦那は残念ながら今はポカラだよ」
カルナが素っ気なくうなずいた。
「知ってる。ジヌーで会ったもの。今度はポカラ工業大学の先生と会う約束があるとか何とか。忙しいわよね、あの先生。それで、今は誰も居ないの? アルビン叔父さん」
アルビンが細く短い眉を上下させて口元を緩めた。大きな毛糸の帽子から伸びている黒髪が、尻尾のように揺れた。
「首都から一人来てるよ」
そして、グルン語からネパール語に切り替えた。
「おーい、ラメシュの旦那。ちょっといいかい?」
少ししてから、ラメシュが疲れた表情で低温蔵の中から顔を出した。ゴパルと違い白衣を着ている。寒いのでジャケットの上からだが。彼の身長が百八十センチもあるので、百五十五センチのアルビンとカルナを見下ろすような感じになっている。しかし、疲れているせいか威圧感は全く感じられないが。
「どうかしましたか、アルビンさん」
アルビンがニッコリと笑って、隣のカルナを紹介した。
「親戚の娘のカルナが登ってきたのでね。せっかくだから紹介しておこうと思いまして」
カルナとラメシュが同じ仕草をして、互いを指さした。
「あっ。ゴパル先生と一緒に森の中で迷子になってた人だ。カルナです。ジヌーから来ました」
「あっ。森の中で助けてくれた人ですね。博士課程のラメシュ・ナガルトキです。あの時は本当に助かりました」
あの時の事を思い出して、カルナが目を細めてクスリと笑った。
(そういえば、捨てられた子犬のような表情をしていたなあ。ゴパル先生は迷い山羊みたいな顔だったし)
「ゴパル先生が居ない間の留守番ですか? わざわざ首都から来て大変ですね、ラメシュ先生」
ラメシュが力なく笑って、ずれていたメガネをかけ直した。
「交代で低温蔵を手伝う事になりました。ですが、風景が素晴らしいので満足していますよ。アルビンさんの作る料理も美味しいですし」
アルビンが大きな毛糸の帽子を手でかいて照れている。
「俺達も研究用のチャンとか飲めるので、楽しんでますよ。あ、このカルナはまだ十六歳なんで、酒を飲ませないでくださいね」
カルナがジト目になった。
「飲まないわよ。叔父さん達の酒乱ぶりを、物心ついた時から見てるんだからねっ」
ラメシュが穏やかに笑いながら、少し困ったような表情になった。徐々に疲れた雰囲気が癒されてきたようだ。
「それは困りましたね。酒はほどほどにしないといけませんよ、アルビンさん。この間仕込んだチャン、一時間もかからずに飲み干したと聞きましたよ」
恐縮するアルビンだ。分厚い手で巨大な毛糸の帽子をボフボフ叩いている。
「いやアレは、ほら、セヌワのニッキや、カルナの親父のアルジュンだけじゃなくて、強力のサンディプや、ドライバーのディワシュまで来てたから……もたもたしてると一滴も飲めなくなるんですよ。プンやボテの爺さんも、酒の臭いに誘われてやってきてたし」
しどろもどろになっているアルビンに、ラメシュが軽く猫背になって微笑んだ。
「味の感想を聞けたので、私としても勉強になりましたけれどね。次からは、外国人観光客にも少し分けてあげてください。彼らの意見も聞きたいので」
「はい、ラメシュの旦那」
次に、まだジト目になっているカルナに顔を向けた。
「実は今やっている研究は、チャンや日本酒の発酵菌についてなんですよ。酒ばかりですいません。どんな事をしているか、簡単に説明しましょうか?」
カルナが細い目を閉じて、否定の意味合いの首振りをした。一呼吸ほど遅れて、彼女の真っすぐな黒髪が腰のあたりで左右に揺れる。
「成人になったら聞くわ。酒の他に何か研究するの?」
バッサリと断られたので、さすがに落胆するラメシュであった。が、すぐに気をとり直したようだ。細くて短い眉をキリリと上げた。ようやく本調子に戻ってきたようである。
「酒ばかり研究してると、酒蔵って呼ばれてしまいかねないですよね。酒以外の発酵食品の研究も行う予定ですよ」
ラメシュが低温蔵の中を何気なく見回した。
「他には、キノコの胞子や菌株の保管も重要な仕事です。作物の種子の保管も、ちょっとだけ実験するつもりですよ」
キノコと聞いて、カルナの一重まぶたの黒褐色の瞳がキラリと光った。
「キノコの種菌作りも、ここでするの? ラメシュ先生」
ラメシュが腕組みをして少し考え込み、そして申し訳なさそうに答えた。
「やってみたいですが、今の施設では場所がありませんね。種菌作りって、結構大きな小屋や冷蔵庫が必要なので」
再び低温蔵の中を見回したラメシュだ。
「将来、低温蔵を増築できたら可能性が出てきますが……育種学研究室がうるさいので、増築したとしても全部種子保存のために使われそうな気がします」
少しがっかりするカルナだ。
「う……そうなのか。パメから種菌を運ぶのって、重くて面倒なのよね。野生キノコで頑張るしかないかな」
ラメシュが素直に同意した。
「この山道を往復するのは大変ですよ。強力隊に任せても、途中で種菌の瓶が割れてしまう恐れがありますし。何か他のキノコを考えた方が良いでしょうね」
がっかりした表情のカルナを励ます。
「私も何か適当なキノコがあるかどうか調べてみます。多分、シイタケ栽培なんかが適しているかもしれませんね」
カルナが細い目を輝かせながら微笑んだ。
「シイタケですか。高級キノコですよね。期待しています、ラメシュ先生」




