隠者の庵
クシュ教授は予定通りに飛行便で首都へ戻っていった。首都では霧が発生していたのだが、飛行中止には至らなかったようだ。それを見送ったゴパルもABCへ帰る事にした。カルパナがバイクで送ろうと申し出たのだが、穏やかに断るゴパルだ。
「カルパナさんも疲れているのですから、今日は自宅でゆっくりしてください。バイクの後部荷台で、私もうっかり眠ってしまいそうですし」
「そうですか……」
少し残念そうな口調になるカルパナだ。若いなあ、と妙に感心するゴパルである。
ゴパルが空港からタクシーに乗ってルネサンスホテルへ去っていくのを見送ったカルパナだったが、パメの家に戻るとそのまま隠者の庵に向かった。弟がまたもや祈祷に出かける事になり、彼の妻も同伴となったためであった。
「姉さん、疲れているのに済まないね」
弟が謝ったが、穏やかに微笑むカルパナだ。弟の嫁から弁当箱を四個受け取る。
「いいよ。それよりも祈祷しに行ってきなさいな、ナビン」
弟夫妻を見送ったカルパナが、隠者と修験者の食事を持ってバイクに乗ってエンジンを点火した。
「そうね……隠者様にも今日の事を報告しておきましょう」
隠者の庵では、なぜか他の聖者や隠者は長居をしないようだ。そのため、実質上は隠者の家のようになっていた。修験者は時々入れ替わっているのだが。
隠者の服装はそれなりに厚着になっていたが、修験者は全員が今も全身白塗りでハゲ頭の全裸である。鳥肌が立っていないので、慣れているのだろう。カルパナから弁当箱を受け取って喜んでいる。ただ、一人だけは断食中という事で断ったが。
隠者が最後にカルパナから真鍮製の弁当箱を受け取って、交流会の話を聞いた。その話はニコニコしながら聞いていたのだが、アバヤ医師が話していた面接試験の内容を聞いてからは呆れたような表情に変わっていった。
カルパナから話を聞き終えて、隠者が視線を庵の外に広がる草原に向けた。
もう十二月なのだが亜熱帯のポカラなので芝は枯れていない。今は放牧されている牛や山羊の群れが草を食んでいるのが見える。
「人は、手前勝手な理屈で操る事ができるような生き物ではないぞ。それが成し遂げられておれば、今頃はミツバチやアリの社会を超える有様になっておるだろう」
隠者がとつとつと語り始めた。
「人は、わがままで傍若無人で気まぐれで自己陶酔するような、どうしようもない生き物だよ。これまでの人類の歴史で何度、社会規範の破壊が生じたと思っておるのか」
カルパナが困ったような表情になったので、コホンと小さく咳払いをして口調を和らげる隠者であった。やはり食事を支配されていると弱いらしい。
「……食事前に憤るのは良くないな、うむ。ホテル側の立場も分かる。社員を養ってやらねばならぬからな。だが、それはホテル側の手前勝手な理屈に過ぎぬ事を理解すべきだろう」
さらに困ったような表情になるカルパナであった。
その表情を見ながら隠者がいたずらっぽく笑って、弁当のフタを開けた。湯気と共に香辛料の香りが溢れ出してくる。鋭く光る眼光を束の間だけ緩める隠者だ。
「物事は多面的に考えた方が良いというだけだ。ポカラの土地神ドゥルガも、バドラカーリー神という別の面を有しておるだろう? が、全てを破壊するカーリー神の面もあるから、節度をもって考える事だな。さて、冷めないうちにいただくとしよう」
神妙な表情をしているカルパナに電話がかかってきた。隠者に断ってからスマホをポケットから取り出して画面を見る。小首をかしげるカルパナだ。
「あれ? カルナちゃんからだ。何だろう。ハローハロー」
スマホからカルナの浮かれた声が漏れ聞こえてきた。カルパナの表情が一瞬呆けたようになり、次の瞬間に黒褐色の瞳がキラキラと輝き始めた。
「トリュフが生えてるの? カルナちゃん!」
それから浮かれた口調でしばらくの間カルナと電話で話していたカルパナだ。次第に浮かれた口調から、熱に浮かれた口調に変わっていく。
電話が終わる頃には、隠者は食事を終えていた。修験者達も終えていて、隠者と共に空になった弁当箱を水道で洗ってからカルパナの所へ戻ってきた。小躍りしているカルパナに隠者が、少し呆れた声色を交えながら聞いた。
「キノコ狩りの誘いかね? 食事美味かったよ」
カルパナがウキウキしながら、水洗いされた弁当箱を受け取った。今は頭をすっぽりとショールで包んでいる姿なのだが、ショールの端がピョコピョコ動いている。レカに劣らないほどの挙動不審な動きだ。
「カルナちゃんからの誘いです。マルディの森に、トリュフというキノコが生えていたという情報があったそうなんですよっ。あわわっ、サビちゃんにも知らせなきゃ」
隠者が目元を緩めながら北の方角を見上げた。庵はサランコットの丘のふもとにあるので、ここからではアンナプルナ連峰は見えないのだが。
それでも透視でもしているかのように、一方向を凝視した。その眼光が和らいでいく。
「天気も良いし、キノコ狩りをするには良かろう。しかし、マルディの森か。急いでも丸一日かかるな」
電話をかけていたカルパナがさらに目を輝かせた。
「サビちゃんも行くと言ってくれました。これはもう、キノコ狩りに行くしかありませんねっ、隠者さま」
早くもその場で駆け足を始めたカルパナに、呆れながらも微笑む隠者だ。
「気をつけて行ってこい。テントと水食糧、それに寝袋を忘れぬようにな。レクではもう霜が降りているぞ」
「はいっ」
そのキノコ狩りの結果がゴパルの耳に届いたのは、ABCで低温蔵の仕事をしている時だった。チヤを運んできたアルビンが詳しく教えてくれた。
「ゴパル先生。カルパナさんとサビーナさんが、うちのカルナと一緒にマルディまでキノコ狩りに行ってきたそうですよ。何でも高級キノコのトリュフが生えているっていう怪情報に乗せられたようで」
相変わらずの情報筒抜け状態だ。
ゴパルが日本酒の醸造作業をいったん終えてから、チヤを受け取った。チャンは醸造が完了していて、サンプルを採取した残りはディワシュとサンディプ達に飲み干されていた。結構好評だったようである。
「チヤありがとうございます。トリュフですか。私は食べた事がありませんが、高級キノコだそうですね。ネパールには自生していないはずなのですが、亜種か新種かな?」
アルビンもチヤをすすりながら首をかしげている。毛糸帽子が完全に冬対応になったようで、かなり大きい。
「俺もトリュフは食べた事がないですね。カルナ達もトリュフは見つけられずじまいでした。ヤマドリタケモドキ、エノキタケ、ヒマラヤヒラタケは採ってきたそうですけれどね」
ゴパルがふと嫌な予感を感じて聞いてみた。
「そのマルディって場所ですが、もしかしてかなり遠いのですか? サビーナさんは仕事が詰まっていたと覚えていますが……まさか」
アルビンがチヤをすすりながら愉快そうに笑った。
「そのまさかですよ、ゴパルの旦那。サビーナさんのレストランは大変だったそうです。結局、副シェフが頑張って予約をこなしたと聞きました」
厨房が大騒ぎになっている情景が、脳裏にありありと浮かんだゴパルだった。協会長は十二月に入ると観光客の数が減ってくると言っていたのだが、それでも店を放置するとは酷い話だ。
アルビンがビスケットをゴパルにいくつか渡しながら、口元を大きく緩めた。チヤ休憩の茶飲み話としては良いネタだと思っているのだろう。実際それにはゴパルも内心で同意している。
「まあまあ、ビスケットでもいかがですか、ゴパルの旦那。売れ残りですけど、食べ残しじゃないんで大丈夫っすよ。カルパナさんもサビーナさんも、ポカラへ戻ってから親親戚にこっぴどく叱られたそうですぜ」
ゴパルがビスケットをかじりながら、軽く肩をすくめた。
「そうですか……後で、チャットでお見舞いでも書いて送っておきますね」
アルビンが彼のスマホの画面をゴパルに見せた。
「連中、遊び半分で登ったんでしょう。マルディで記念撮影までしてますぜ」
画面には、雄大なマチャプチャレ峰を背景にして三人が映っていた。収穫物のキノコを手にしているので、下山する直前だろう。場所は高地らしく、枯れ果てた草原の斜面と氷雪に覆われた岩山ばかりだ。斜面のくぼみには、点々とモミ等の針葉樹林がまばらに生えている。
ゴパルが苦笑しながら自身のスマホのチャットを開いた。
「そのようですね。記念撮影見ました、と書き添えておきましょう」




