クシュ教授到着
翌日の朝九時に到着する便でポカラへやってきたクシュ教授が、出迎えのゴパルに軽く手を振った。
今朝も霧が発生したのだが、ちゃんと飛べたと空港で知ったゴパルだ。ニュースでは、北インドやテライ地域の濃霧が話題になっているので、幸運だったのだろう。相変わらずの人込みと乞食に客引き達だが、スルスルと流れるようにかき分けて空港の外へ出てくる。太鼓腹なのだが、見事な体さばきだ。
「さすがにポカラだね。首都よりも暖かいよ、ゴパル助手」
クシュ教授のキャリーバッグを受け取ったゴパルが、穏やかに答えた。
「ようこそポカラへ、クシュ教授。送迎バスまで案内しますね」
空港の駐車場から北を向くと、真っ白に雪化粧したアンナプルナ連峰の壁がそびえ立っている。その雄大な景色を眺めたクシュ教授が、大きな黒い瞳を輝かせた。
「ポカラへは、たまに来る程度なのだがね。いつ見ても圧倒される山だな。飛行機の中で見たマナスル連峰も真っ白だったよ」
ゴパルが少し荒れた眉を上下させた。
「低温蔵があるアンナプルナ内院は、もっと圧倒的な景色ですよ。ポカラ工業大学のディーパク助手によると、登山用のパワードスーツも開発中だそうです。いつか、クシュ教授も内院へ遊びに行けるようになると思いますよ」
クシュ教授がホテルの送迎バスに乗り込んで、一息ついた。バスといっても普通のバンだが。
「そうだね、その時を楽しみにするよ。その前に、ちょいとダイエットした方が良さそうだけどね」
ゴパルがいつもチップを渡している男スタッフが、運転席に座った。もう車内は満席になっている。荷物は最後尾と、バンの上にある荷台に乗せられていた。なので、客席は見通しが良い。
外国人観光客ばかりなのだが、欧米人の人数が少なめだ。中国人とインド人の割合が増えているように見える。そんな客席を眺めながら、クシュ教授がゴパルに告げた。
「そうそう、ゴパル助手。光合成細菌の報告書を見たよ。低温蔵や種苗店の倉庫の報告ばかりで、どうなっていたのか気がかりだったのだが……上手くいっている様子だね」
ゴパルが首を引っ込めながら恐縮している。
「すいません。すっかり忘れていました」
クシュ教授が半分白い眉を片方だけ上下させた。
「だと思ったよ」
ホテルに到着してチェックインを済ませたクシュ教授に、ゴパルが協会長を紹介した。クシュ教授が気品のある紳士の所作になって、協会長に合掌して挨拶をした。
「こうして会うのは初めてですね。クシュ・クマール・ジョシです。いつもゴパル助手がご迷惑をかけているようで、申し訳ありません」
協会長も同じく合掌して挨拶を返した。彼はいつも通りのスーツ姿だ。
ちなみにクシュ教授も今はスーツ姿である。身長は百五十センチほどと低いのだが、太鼓腹なので堂々とした雰囲気になっている。普段着なのはゴパルだけだ。
「ご丁寧にありがとうございます。このホテルのオーナーのラビン・シェルチャンです。この時期は満室続きになっておりまして、個室をご用意できず申し訳ありませんでした」
クシュ教授がニッコリと社交的な笑顔を浮かべた。
「突然思い立ってのポカラ旅行でしたから、お気遣いなく。ゴパル助手には小言をたくさん用意してきましたので、同室なのは大歓迎ですよ」
うへえ……といわんばかりの渋い表情になるゴパルだ。クシュ教授と協会長とが、ゴパルの顔を見て一様に微笑んだ。こうして見ると、二人ともに立派な紳士然としている。
クシュ教授がホテルのロビーに視線を向けてから、協会長に聞いた。
「ところで、今日はこれから会合ですかな? ホテルの入り口に看板が立っていましたが」
協会長がゴパルにチラリと視線を投げてから、穏やかにうなずいた。
「はい。米国に本部がある有機農業団体の、南アジア地区交流会がこれから開かれます。カルパナさんが幹事を務めますよ。あっ居ました。カルパナさん、こっちこっち」
クシュ教授がゴパルに意味深な視線を投げてきた。ゴパルがさらに恐縮して、借りてきた猫のような状態になっている。
「すいません、クシュ教授。これも報告漏れでしたね……」
その間に、カルパナが小走りでやって来た。すぐにクシュ教授に合掌して挨拶をする。
「クシュ先生ですね。テレビ電話で何度かお会いしましたが、こうして対面するのは初めてですね。カルパナ・バッタライです。パメで種苗店を営んでいます。ゴパル先生にはいつもお世話になって、とても感謝していますよ」
クシュ教授も穏やかに合掌して挨拶を返した。
「ゴパル助手の面倒を見てくださって、本当にありがとうございます。これから有機農業団体の交流会だそうですね。差し障りが無ければ、隅の方で見学してもよろしいかな?」
カルパナが二重まぶたの黒褐色の瞳を輝かせた。
「もちろんです。どうぞ」
その時、交流会場となる会議室の中から、ゴパル付きの男スタッフがカルパナを呼んだ。すぐに答えたカルパナが、クシュ教授にもう一度合掌した。
「すいません。ちょっと行ってきますね」
そのまま再び小走りで会議室へ入っていく。その後ろ姿を見送ったクシュ教授が、無表情でゴパルに肘打ちした。
「やるじゃないか、ゴパル助手」
「何がですか、もう」
交流会までにはまだ少し時間があるので、ゴパルの部屋へ向かうクシュ教授だ。彼のキャリーバッグは当然のようにゴパルが持って運んでいる。いつもの男スタッフは、カルパナと会場セッティングに関わり続けているので仕方がない。
二階の角部屋に入ったクシュ教授が、窓からの展望に感嘆の声を上げた。
「ほう。これは眺めが良いな。フェワ湖に映えるアンナプルナ連峰が一望できるじゃないか」
この時間帯は風が吹いて湖面が波打っているために、逆さ富士のような絵にはなっていない。それでも空の青を映した湖面と、対岸の緑に彩られた白銀のアンナプルナ連峰が輝いている。背景も雲が少なくて青空だ。
「ちょっとゴパル助手には過ぎた部屋ではないかね? 別の安い部屋に替えてもらうべきか」
ゴパルが両目を閉じて観念した顔になっている。
「いかようにもしてください」
クシュ教授がニコニコしながら、イスに座るようにゴパルに命じた。シャツのポケットからメモ帳を取り出す。
「では、いかようにもするとしよう。ゴパル助手、懺悔をするなら今のうちに受けつけておくぞ」
小言を聞かされるゴパルであった。内容は多岐に渡ったが、まずはバクタプール酒造の事から始まった。
「まず、ワイン専用酵母の保管管理が酒造所では徹底できておらぬな。素手でフタを開けて、そのまま室温で放置したりとか、酵母が雑菌に汚染されてダメになるぞ」
「はい、教授」
「専用酵母の使用記録も不完全だった。目分量で使っている節が感じられるな。ワインの発酵にバラツキが生じてしまうぞ」
「はい、教授」
「KL培養液や有機肥料をブドウ畑へ施用する方法も、作業員ごとに違っておる。肥料が過剰になる木や、反対に不足する木が出てしまうぞ」
「はい、教授」
「そのオウムのような条件反射の答えは減給査定になるぞ」
「はい、教授」
……などなど、みっちりと三十分間絞られてしまったゴパルであった。




