新作ワイン
「本題に移りたいのですが、バクタプール酒造のワイン醸造はその後どうですか? 何かの問題が起きていなければ良いのですが」
クシュ教授がテカテカ光る頭を手でペシペシ叩きながら、麻呂型の眉を上下させた。ただし十秒おきの静止画像だが。
「赤と白ワインの醸造が始まったよ。発泡ワインも仕込んだから、そのサンプルと併せてそちらへ送ろう。これで首都で長期停電が起きても、安心して研究ができるようになるだろう」
ゴパルがにこやかに微笑んだ。どうやらクシュ教授に任せても何とかなりそうだ。正直な所、彼の太鼓腹を見て不安を感じていたのだが。
「そうですね、教授。ワインの長期熟成を調べるための保温庫も、無事に稼働しました。これで、何年間の熟成に耐えるのかも研究できますね」
クシュ教授の大きな黒い瞳がキラリと輝いた。
「うむ。言う事を聞く機械だけが良い機械だからな」
ツッコミを入れないゴパルである。クシュ教授が淡々とした口調で話を続けた。
「バクタプール酒造だが、先日収穫した最後のブドウを使って、二種類のワインの試作を始めたよ。一つは干しブドウワイン、もう一つは凍結ワインだ。どちらも強い甘口ワインに仕上げる予定だ。このサンプルもそちらへ送るからよろしくな」
干しブドウを使ったワインはイタリア、ドイツ等で作られている。水分が蒸発するので、甘口ワインにした場合には強い甘みを持つ。酒造所によってはさらに発酵させて糖分を消化させ、辛口ワインに仕上げる所もある。バクタプール酒造では、普通の甘口ワインを目指すようだ。
クシュ教授が穏やかな口調で話を続けた。
「国内のワイン用のブドウ農家は、車道から離れた僻地にある事も多いからね。収穫しても酒造所まで運ぶ間にブドウが痛んで腐ってしまう恐れがある」
彼の大きな黒い瞳がキラリと輝いた。
「農家の庭先で干しブドウにしてそれを酒造所へ運び込めば、そういった心配は無くなるだろう」
ゴパルも同意した。
「そうですね、教授。背負いカゴにブドウを入れて山を下りますから、傷みやすいですよね。干しブドウに加工すれば、より多く安全に運ぶ事ができるはずです」
ここでゴパルが小首をかしげた。
「……で、凍結ブドウも僻地農家への支援のためでしたっけ?」
クシュ教授が口元を大きく緩めた。
「んなわけ無かろう。これはただの趣味だよ」
ゴパルが肩を落として両目を閉じた。
「ですよねー……ここだと、雪が積もるセヌワでブドウ栽培するようなものですし」
クシュ教授が少しだけ真面目な表情になった。
「僕も低温蔵の様子を見に行きたいのだが、体力的に無理だろう。なので、ポカラだけにするよ。ゴパル助手や博士課程の三人が、今後世話になる人達に挨拶をしておく必要があるからね」
ゴパルの目が点になった。
「え……? それはつまり、教授がポカラへ来るという事ですか?」
ちょうど十秒おき更新のタイミングが合ったようだ。素敵な笑顔をしたクシュ教授の静止画像に切り替わった。
「うむ。そういう事だな。空港での出迎えを頼むよ、ゴパル助手」
思わず天を仰ぐゴパルであった。
(マジですか……まだ病み上がりなんですけど)
結局、クシュ教授の乗る飛行機便の日時を確認して、ポカラへ下りる事になったゴパルであった。
明け方に低温蔵の一室で、チャンと日本酒の醸造を一区切りさせてからサンプルを採取している。
(私が留守の間に醸造が失敗するかもしれないからね。保険としてサンプルを確保しておかないとな)
サンプルを保管庫に入れて、改めてチャンと日本酒の醸造タンクを見た。研究目的なのでタンクといっても容量は二十リットルほどだ。
(醸造が完了するまでに二週間くらいかかるから、まあ、暇といえば暇なんだけどね……さて、チヤとビスケットを腹に入れてから山を下りるとするかな)
チャンの場合は一週間以内に飲むのが普通だ。それ以上経過してしまうと、発酵し過ぎて甘みが無くなってしまう。一方、日本酒の場合は二週間程度では短いので、飲んでもあまり美味しくない。低温蔵では菌の数や活動を調べる事が目的なので、味は二の次だ。
それでも味の調査については、後日ここで試飲会を開いて感想を募る計画である。その試飲会では、美味しく飲めるようにきちんと発酵熟成させる予定だ。
まだ夜が明ける前に民宿ナングロを出立するゴパルだ。足元が暗いので懐中電灯で照らして、枯れた草原の中を下りていく。
「さすがにこの時間は歩いている人は居ないなあ。星がきれいだ」
下りの坂道の先にそびえ立つマチャプチャレ峰が、星明りでぼんやりと白く浮き上がって見えている。その背景には無数の星々がきらめいていた。いくつかゆっくりと動いているのは、人工衛星だろう。
足をくじかないように注意しながら、それでも軽快に坂道を下りていくゴパルだ。




