マイケルの提案
戻ろうとしたその時、一人の外国人がニコニコしながらやって来た。中国人だ。流暢なネパール語で合掌して挨拶をしてくる。
「こんばんは、ゴパル先生。久しぶりですね。低温蔵が無事稼働して良かったですよ」
声で思い出すゴパルだ。
「ああ。以前レイクサイドの二十四時間営業の中華料理屋で会いましたね。ええと……名前は確か」
中国人が笑顔のままで答えた。
「マイケルと呼んでくださいな。洗礼名の方が発音しやすいでしょうから」
ゴパルが両手をポンと合わせて思い出した。
「そうでした、マイケルさんでしたね。わざわざこんな場所まで観光ですか?」
マイケルがニコニコしながらうなずいた。
「半分はそうですね。もう半分は商売のネタ探しですよ。こういった景勝地では、商売の投資効果が高いもので」
マイケルが穏やかに微笑みながら、目元をキラリと光らせた。
「この低温蔵では、ワインとチーズに日本酒を研究するそうですね。中国にも多様な発酵食品がありますよ。何か研究してみませんか?」
ゴパルが腕組みをして考え込んだ。どんどん周囲が暗くなっていき、今はもうアンナプルナ主峰も夕闇に沈んでいる。
「恥ずかしながら詳しくないのですよ。何か良さそうなモノがありましたら、ぜひ教えてください」
マイケルが満面の笑みを浮かべた。
「分かりました。酒は中国の外で仕込んでも売れないと思いますので、他の食材を当たってみますね」
ここで少し考えるマイケルだ。
「ネパール人は、味噌や醤油には馴染みがありませんよね」
素直にうなずくゴパル。
「ですね。中華料理自体、あまり食べません」
マイケルが真面目な表情に変わってゴパルの反応にうなずいた。
「なるほど。その点も考慮しておきましょう」
そして、厨房の窓から漏れる明かりに視線を向けた。
「ご飯が冷めてしまいますね。では、私はこれで。ゆっくり休んで体力を回復させてください」
食事は粟のディーロに鶏の香辛料煮込みだったので、ご機嫌のゴパルだ。食後の水一気飲みを終えて、満足そうに一息つく。
食堂は満席で、欧米人や中国人観光客を中心にして賑やかに談笑している。その中にマイケルの姿を探したが、見当たらなかった。別の宿に泊まっているのだろう。
アルビンもまだ忙しく厨房と食堂を小走りで行き来しているので、声をかけるのを止めておく。
(あ、そうだ。ガンドルンの事務所長に報告だけ送っておくか)
塩対応ばかりしてくる、アンナプルナ保護地域の国立公園の管理事務所長の顔を思い浮かべた。典型的なバフン階級の顔つきで、面倒くさがりだったよなあ……という印象しかない。
「あれで低温蔵を気にかけてくれているとは、今でも思えないんだけど……ま、報告はしておかないとね」
それなりに詳しい報告を送るゴパルだ。写真を添付しようかと迷ったが、一枚だけ送ることにしたようだ。
「よし、これで送信……っと。クシュ教授にも知らせないとね」
そこへ、クシュ教授からテレビ電話がかかってきた。驚くゴパルだ。
「うわ。見計らったみたいなタイミングで、かかってきたよ。食堂のどこかに監視カメラでもあったりして」
観光シーズン中で多くの観光客がネットを使っている上に、今晩は通信状態が悪いようだ。動画ではなく、静止画像を十秒おきに送る状況に切り替えた。
クシュ教授はちょうど食事を終えた頃合いだったようだ。彼の自宅の居間が背景として見えている。室内の照明の光が彼の頭を照らしていてテカテカしているのだが、見ない事にするゴパルであった。
ゴパルが一応、身だしなみを適当に整えてから挨拶した。
「こんばんは、クシュ教授。首都はいかがですか。こちらは冷えてきました。低温蔵は無事に稼働しましたよ。今、報告書を送りますね」
先程送った物と同じ報告書を送信するゴパルだ。圧縮ファイルにしてあったので、これは時間もかからずに無事にクシュ教授の端末まで届いたらしい。
早速メガネをかけて報告書を一読したクシュ教授が、満足そうな笑みを浮かべた。半分ほど白くなっている麻呂型の眉が意味深に動いている。
「予想以上に順調だね。ワインのサンプルも順次送るから、保管を頼むよ。ゴパル助手」
何かトラブルが起きるのを期待していたのかな……と思うゴパルだったが、仕事の話を優先する事にしたようだ。
「クシュ教授。先程の事なのですが、ポカラで知り合った中国人のマイケル氏が……あ、これは洗礼名だそうです。その彼がですね、中国にも様々な発酵食材があるので研究してきてはどうかと提案してきたのですが……どうしましょうか」
クシュ教授がメガネを外して、あっけらかんとした表情で答えた。
「共同研究かい? 構わないよ、やってみなさい」
拍子抜けしたゴパルが、改めて先程のマイケルとの会話内容を伝えた。
「……このような経緯ですね。お酒の類は、中国の外で仕込んでも商売につながらないという彼の話でした。ですので、それ以外の発酵食材の共同研究という事になると思います」
そして、マイケル氏から以前もらった名刺の内容を記したファイルを探して、クシュ教授に送信した。
ネパールでは名刺交換をする機会はあまりないので、ゴパルのスマホにメモして残しておいたのであった。
「これが彼の連絡先です。私から彼に共同研究の打診をしてみましょうか?」
クシュ教授がマイケルの情報を一読してから、軽く指を鳴らして気楽な声で答えた。
「いや、これは僕から探りを入れてみるよ。ゴパル助手は低温蔵の管理と研究に勤しんでくれたまえ」
ほっとしたゴパルである。余計な仕事をしなくて済んだようだ。




