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アンナプルナ小鳩  作者: あかあかや
肥料も色々あるよね編
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仕事開始

 予想通り、翌日には低温蔵で仕事を始めたゴパルであった。

 強力隊が運び上げてくれた菌のサンプルを、設置して稼働したばかりの保管庫へ収めていく。バクタプール酒造で採取した今年のワインのサンプルを取り出して、軽く振ってみる。ラメシュ達もサンプルを持ってきていたので、それなりに数がある。

「やっと、まともな保管庫に入れる事ができたよ。この微生物分析もする必要があるよねえ……」


 続いて、保管庫につながっている冷却用と加熱用のパイプに触れて、満足そうにうなずくゴパルだ。

(うん。設計通りの温度になってる。氷河の雪解け水と、民宿の厨房かまど排熱のおかげだな)

「ああ、そうだ。予備熱源の確認もしておくか」


 低温蔵を出て、ABCの民宿街が共同で使用している上水道管に向かう。この上水道は斜面の上にある氷河の端に設けた貯水槽が水源だ。ゴパルもこれまでに二回水源地を見に行っている。

 そのパイプには今は薄くて黒いシールが貼られてあった。シールの上端は貯水槽まで続いている。下端には小さなメーターが貼りついていて、その数値を確認した。安堵の表情を浮かべるゴパルだ。

(温度差発電のシートだけど……予想通りの発電量を維持してるね。良かった)


 ABCと水源地とは高低差がかなりある。水源地は氷河も近いので常時低温だ。その温度差を基にした発電装置である。熱電装置と呼ばれる物だ。これも元々は宇宙エレベータの素材開発で生まれている。

(発電量としては大した値にはならないけれどね。予備としては十分だな。ええと、これも報告しておかないといけないのか。クシュ教授と、ポカラ工業大学のスルヤ教授宛に送信……だな)

 通常は民宿ナングロの照明機器やテレビ等の家電への電力供給の足しにされている。もしも低温蔵で加熱が必要になった際には、回路を切り替えて使えるようになっている。

 そのどちらにも使わない場合には、備えつけの蓄電池で電気を溜めておくシステムだ。

(風力発電がこの地形では一番便利なんだけどね。景観が悪くなるからなあ……)

 巨大な盆地なので常時上昇気流が発生しているため、風力発電向きの地形だったりする。


 蓄電池の状態も確認してから、再び低温蔵へ戻るゴパルだ。低温蔵には入り口の部屋を除いて、他に三つの部屋が設けられている。

(ええと……計画だと、手前の部屋から順に、ワイン、熟成肉とチーズ、日本酒の研究室だね。で、隅の方に作物種子とキノコ胞子、それと微生物サンプルの保存庫か)

 それぞれの部屋を見て回る。

(うーん……種子保存の容量が増えそうだから、雪室ゆきむろの一部を使えるようにしておくべきかな)


 研究室を分けてあるのは、それぞれで主役になる微生物の種類が大きく異なるためだ。ゴパルが頭をかいた。

(熟成肉とチーズで使うのはカビだけど、本来はこれも別々に分ける必要があるんだよねえ……将来の拡張工事に期待するか)

 まあ、バクタプール大学の微生物学研究室に比べると、部屋が区切られているだけ低温蔵の方が優れていると言えるだろう。


 そこへ、ディワシュとサンディプがニコニコしながら顔を出した。彼らもすっかり酒が抜けてシラフに戻っているようだ。

「よお、ゴパルの旦那。低温蔵はどうだい? 使えそうかい?」

「追加の建築資材が必要ならチャイ、運び上げてやるぞ」

 ゴパルが手を振って挨拶を交わして、穏やかに微笑んだ。

「先程、温度管理ができているかどうか確認したばかりです。設計通りに働いてくれていますよ。ディワシュさんとサンディプさんが、重い機材や資材を運んでくれたおかげです。ありがとうございました」


 照れているディワシュとサンディプだ。礼を言われるのに慣れていないらしい。

 筋骨隆々としたサンディプと比べるとやはり小太り体型に見えるディワシュが、武骨な手で角刈り頭をかき回しながら、太い眉を上下させた。

「よせやい、調子が狂うだろ。ナヤプルの居酒屋にある倉庫はチャイ、前もって使う日を知らせてくれたら空けておくからよ。酒の仕込みを楽しみにしてるぜ」

 サンディプが自身の分厚い胸板をバンと叩いて笑った。

「そうだ。そろそろ酒の仕込み材料が届く頃だナ。米を使うって事はチャイ、チャンでも仕込むのか?」

 チャンはネパールのどぶろくの事である。主にネワール族やグルン族が好んで仕込んでいる。


 ゴパルがスマホを取り出して予定表を確認しながらうなずいた。

「そうですね。チャンの発酵用クモノスカビの研究用です。良い菌株を凍結乾燥して保存する予定ですよ。併せて酵母菌と乳酸菌も研究します。菌次第ですが、上手くいけば美味しいチャンが安定して仕込めるようになりますね」

 小躍りし始めるサンディプとディワシュだ。ゴパルが話した菌種の名前についてはスルーして、チャンという単語に飛びついたようだ。

「おお。やっぱりチャンか! 飯の代わりにもなるからなっ」

「こりゃ楽しみだぜ」

 ゴパルも喜びつつ、もう一つの研究目的も話した。

「それと、麹を使っての日本酒とどぶろくも仕込んで研究しますよ。使う菌の種類が違うので、混ざらないように注意する必要がありますけどね。他には、日本酒の原型になった古代酒も試験的に仕込んでみます。かなり甘いそうですよ」

 ディワシュがガハハ笑いを始めた。

「日本酒か! アレって結構高いんだよな。あんまり飲んだ事がないからチャイ、楽しみにしてるぜ」

 サンディプが早くも到着した強力隊に手を振って合図を送った。

「おう。もう来たか。こっちだこっち。チャンを仕込むらしいぞっ。また飲みにこようぜ!」

 強力隊が歓声を上げて答えるのを聞いて、苦笑するゴパルだ。

「商業生産ではないので、あんまりたくさんは仕込みませんよ」


 仕込み作業はゴパル一人で済ませた。人が大勢居ると、雑菌の持ち込みが懸念されるためだ。

 それでも少量生産なので、夕方までにはチャンの仕込みが終わった。粥にクモノスカビを砕いた粉末を加えて、温度を指定して発酵させている。

「日本酒は、そう簡単にはいかないな。明日に続きをするか」

 今の段階では蒸した米に、種麹と呼ばれる種菌の粉末を振りかけて温度調節した所だ。一晩経つと麹菌が繁殖して、蒸し米が白いフワフワした毛で覆われる。それを発酵用のタンクに移して温度調節をしていく工程だ。

 商業生産する場合には、これを種菌にしてさらに蒸し米を加え発酵させて量を増やす。ここでは研究用なので、発酵回数は一回だけだ。

(米を磨いていないから、雑味が多い日本酒にしかならないけれどね。菌の研究用ならこれで十分)


 今日の仕事を終えて背伸びしてから低温蔵を出ると、厨房の窓からアルビンが目ざとく見つけてチヤを持ってやって来た。

「ゴパル先生。どうですかね、上手くいきそうですか?」

 チヤを受け取ったゴパルが、早速すすりながら軽く首を振った。これは否定と肯定とが半々くらいの首振りだ。

「今日始めたばかりですから、今は何とも言えません。上手くいく事を祈っていますよ」


 期待通りの答えではなかったので、少し驚いた表情になったアルビンだ。しかし、ゴパルが落ち着いているのを見て安心したようである。

「そういえばゴパルの旦那は、大学の先生でしたっけ。ここには偉い先生も来るんですが、彼らも冷静沈着な性格ですね」

 ゴパルが頭をかいて頬を緩めた。

「すいません、つい研究室のノリで接してしまいますね。お酒づくりって、微生物任せの場面が多々ありますからね。人ができる事はあまりないのですよ。せいぜい微生物が増えやすい環境を整えるくらいです」


 そしてチヤをすすりながら、視線をアンナプルナ主峰へ向けた。

 山頂付近が赤いオレンジ色に輝いている。他は既に夜の闇に包まれていた。民宿ナングロの厨房の窓から漏れる明かりが、次第にまぶしく感じられてくる。

「標高4100メートルという環境は、菌にとっても初めてですからね。しばらくの間は慎重に様子をみないといけません」

 アルビンが少し納得したようだ。ゴパルが飲み干したチヤのグラスを受け取った。

「なるほど、菌にも高度順応が必要って事ですね。俺も低温蔵が上手くいく事を神様に祈っておきますよ。そろそろ食事ができますんで、部屋で汗を流してきてくださいな」

「そうします。病み上がりなもので、いつもよりも多く汗をかいているようです」

 アルビンが厨房へ戻るのを見送ったゴパルだ。もう一度、低温蔵の戸締りを確認する。

「さて、冷えてきたし部屋に戻ろうっと」


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