天然酵母の採集と種菌つくり
ゴパルが冷蔵庫や地下の蔵の中を見回ってから、めぼしい材料を集めてきた。それらを調理台の上に並べていく。
干しブドウ、ツクチェ産のリンゴ、レモン、ヨーグルト、それに砂糖だ。他には広口のガラス瓶もある。
「干しブドウが一番簡単ですね。これは、水でふやかして皿の上に置いておけば、勝手に発酵を始めます。冷蔵庫や蔵に入れなくても、室温で大丈夫です」
サビーナがうなずいた。
「うん。その話は聞いた事があるわね。これって、干しブドウについている菌が発酵したものなの?」
ゴパルがうなずいた。
「基本はそうですね。これに、空気中を漂っている菌も加わります。酵母菌が主体ですね。一晩経過して、アルコール臭がしたら使えます。干しブドウを汁ごと砕いて、そのまま種菌に使ってください」
ちょっとゴパルが考えてから補足した。
「とりあえず、ピザやパンの発酵補助として使ってみてはどうでしょうか。原理的にはワインも仕込めますが、お酒ですからね。色々と法的な問題があると思います。簡易酒造所の登録が必要とか」
サビーナが苦笑して肩を軽くすくめた。
「他のホテル協会のレストランじゃ、無許可で蒸留酒を仕込んでいるけれどね。店で出すだけという事で黙認されているんだけど」
サビーナが少しの間考えた。
「そうね……ラビン協会長に簡易酒造所の登録申請をするように提案してみるか。パン工房と同じで、簡易酒造所が一つあれば協会加盟のホテルやレストランで酒を共有できるものね」
ゴパルが次にリンゴを手に取った。
「では、次にもう少し難しいものをやってみましょうか。糖分が少ない材料から菌を採集する方法です」
ゴパルがリンゴを紙ナプキンでさっと拭く。リンゴの頭と尻のへこんだ部分も拭いた。それから先の尖った小型包丁で、その頭と尻のへこんだ部分をえぐり取った。
「リンゴは完熟したものが最適です。リンゴを洗うと表面に付いている酵母菌が洗い流されてしまうので、紙ナプキンで埃を拭き取る程度に留めてください」
ゴパルがぎこちない手つきでリンゴの皮をむく。むき終わったリンゴを縦に二つ割りした。そしてリンゴの種がある芯の部分を、同じナイフでえぐり取った。
「使うのは、この芯と皮、へこんだ部分だけです」
二つ割りにしたリンゴの果肉は、レモンを搾った汁を水で薄めたボウルの中へ漬け込んだ。
「これは使いませんので、皆さんで食べてくださいね」
ゴパルがリンゴの皮と芯、それにへこんだ部分を、広口瓶の中へ押し込む。
そして、ヨーグルトを手元に取り寄せた。使い捨てスプーンを使って、ヨーグルトの味見をするゴパルだ。
「発酵補助材料としてヨーグルトを小さじ一杯加えます。ですが、ペーハー値が3・5以下のヨーグルトを使ってください。妥協して3・8までですね。それ以上のペーハー値ですと異臭が生じる恐れがあります」
カルパナが興味深く眺めてから、ゴパルに視線を向けた。
「KLと同じ扱いですね」
ゴパルが素直にうなずいた。使い捨てのスプーンを流しの中に置く。
「そうですね。干しブドウに比べると糖分が少ないので、雑菌が繁殖しやすいのですよ。雑菌の中には食中毒を引き起こす菌も居ますから、酸で抑えつけます。このヨーグルトなら大丈夫ですね」
サビーナがニヤニヤしながら指摘した。
「口がペーハー測定器みたいになってるのね、ゴパル君」
ゴパルが頭をかいて照れた。
「職業柄、こういう特技を得てしまいました。皆さんはきちんとペーハーを測定してくださいね」
塩素抜きした水をボウルに注いで、その中に砂糖を加えて混ぜて溶かした。これも使い捨てスプーンを使って味見するゴパルだ。
「薄っすらと甘い砂糖水にしてください。こんなものですね。目安としては水の五%の重さの砂糖になります」
ヨーグルトを加えた広口瓶に、ボウルの砂糖水を注ぎ込んだ。瓶一杯に注ぎ込まず、七割くらいの分量だ。この瓶にフタをして、軽く振って混ぜた。
「これで仕込み完了です。ポカラは亜熱帯ですので、このまま室温で発酵させてください。最低水温が十五度以上あれば発酵しますよ」
アバヤ医師や当番シェフも含めた全員が、ゴパルの説明をスマホで撮影している。こういうのは慣れていないようで、困ったような表情で照れるゴパルだ。少し荒れた眉が、互いに不規則な動きをしている。
「朝晩一回、瓶を軽く振ってください。二、三日すると発酵して炭酸ガスが発生してきます。チソみたいな感じになってくるので、フタをガス抜き用に取り替えます。KL培養液を仕込む際に使う方法と同じですね」
アバヤ医師と当番シェフが首をかしげたので、カルパナが説明を挟んだ。
「フタに小さな穴を開けて、そこに細いチューブを差し込みます。反対側のチューブの先は、水の入ったボトルの中へ差し込みます。こうする事でガス抜きができますよ」
なるほど、と納得した二人だ。ゴパルがカルパナに礼を述べて、話を続けた。
「三日間ほどそのまま発酵させると、アルコール臭が強くなってきます。これで完成です。パンやピザ生地の発酵補助材料として適当に使ってください」
サビーナがスマホで撮影をしながらゴパルに質問してきた。
「了解。それで質問なんだけど、これってアルコールよね。酢にできないかしら」
ゴパルが少し考えてから答えた。
「そうですね……アルコール臭が強くなった段階で、冷蔵庫へ三日間ほど入れてみてはどうですか? 低温になると酵母菌の活動が弱まって、代わりに乳酸菌が働き始めます。完全にアルコールが抜ける事はありませんが、より酸っぱくなると思いますよ」
カルパナが少し驚いている。
「温度を変えると菌も変わるんですね」
ゴパルが冷静な口調になってうなずいた。彼の専門分野に少しかかった様子だ。
「はい。キノコもそうですよ。この技法はワインや日本酒でも使われています。酢酸菌を直接混ぜ込んでも酢になりますけれどね。その場合は少し砂糖水を補充しておきます。サビーナさん、酢酸菌の粉末も送っておきましょうか?」
サビーナが即答した。
「ええ、お願い。果実酢って結構使えるのよ。ええと、乳酸菌と酢酸菌の二種類を使い分ければ、別々の酢が作れるのね。それと、本来の酵母菌の発酵液と。ん。面白そう」
ゴパルが広口瓶を調理台の隅に移動させて一息ついた。
「お腹も落ち着いてきました。この方法は、他の果実や野菜、それに花でも使えます。竹の新葉とか、パイナップルの葉とか、ハイビスカスの花でも酵母の発酵液ができますよ」
花と聞いて目をキラキラさせているカルパナとサビーナに、ゴパルが冷静な口調で補足説明を加えた。
「花の場合は雌花よりも雄花を使った方が、多様な酵母菌を採取しやすくなります。蜂がたくさん訪れている草木が良いでしょうね」
サビーナがスマホをコックコートのポケットに突っ込んで礼を述べた。
「講習ありがとね。まずはとりあえず、酵母の発酵液を色々仕込んでみるか。厨房の中が酒臭くなっちゃうかも知れないけど。それで田舎パンを作ってみるわね」




