ジヌーの温泉宿街
ジヌーに到着したのは、昼過ぎになってからだった。ジヌーはアンナプルナ街道から外れた町なのだが、この時期は外国人観光客が多い。
温泉へ向かう道も、水着を着込んでさらに防寒ジャケットを羽織った不思議な姿をした人達で混雑している。さすがにゴパルのように、酒とツマミを持参する猛者は居ないようだが。
そんな温泉客を見送りながら、ゴパルがジヌー温泉ホテルへ到着した。ホテルという名前がついているが、普通の民宿である。
新築の鉄筋コンクリート二階建てで、屋根は無くて物干し場になっている。チベット仏教の小旗が連なって風にはためいているが、これも洗濯物のように見える。
民宿の入り口には、オヤジのアルジュンが地元民のグルン族のオヤジ達と談笑しながら酒を飲んでいた。ゴパルがにこやかに合掌して挨拶をする。
「こんにちは、アルジュンさん。ゴパルです。食事できますか?」
アルジュンが少し耳と頬が赤くなった顔をゴパルに向けた。一重まぶたの黒い瞳が細められて、その上に乗っている太くて短い眉が踊った。
「おお、ゴパルの旦那。いらっしゃい。ちょうど飯が炊きあがったところだナ。娘とチャイ、カルパナさんも来てるよ」
分厚い手のひらをヒラヒラ振って、食堂の奥に居るその二人を手招きするアルジュンだ。
「うおーい、カルナ―! ゴパル先生が来たぞお」
カルナが食堂の奥で飛び上がった。一重まぶたのつり目で、父のアルジュンとゴパルをキッとにらみつけてくる。
「客がいるのに、大声出すなー!」
とりあえずチェックインを済ませたゴパルが、カルナとカルパナに合掌して挨拶をした。
「こんにちは。私はこれから食事にしますが、お二人はもう済ませたのかな?」
カルパナが少し申し訳なさそうな表情になって答えた。
「はい。つい先ほど済ませました。ゴパル先生がABCから下りてくるのに、時間がかかると思ってまして……」
ゴパルが頭をかきながら照れ笑いを浮かべた。
「ははは……思ったよりも、私は足腰が強いようです。では、私は部屋に荷物を置いて、汗を流してから食事にしますね。キノコ栽培の指導が遅れてしまって、すいません」
ゴパルがカルパナとそれからカルナに謝ったのだが、カルナはドヤ顔で鼻で笑っている。
「もうヒラタケの菌床を袋詰めして倉庫に吊るしてしまったから、ゴパル先生の出番はもう無いわよ」
「え?」
目が点になっているゴパルに、カルナがドヤ顔のままで隣の席のカルパナの手を取った。
「カルパナさんに指導してもらったの。さすが農業の先生だけあって、教え上手よね」
カルパナが本当に申し訳なさそうな表情になって、ゴパルに謝った。
「すいません、ゴパル先生。夕方までにポカラへ戻らないといけませんので、先にやってしまいました」
脱力するゴパルであったが、すぐに気を取り直した。
「ABCから下りてくる間に、私が怠けて連絡をしなかったのも原因ですね。目的は、カルナさんがヒラタケ栽培を始める事でしたので、早く済んだ事自体は歓迎すべきです」
うんうん、とうなずいているカルナだ。その彼女に肯定の意味合いで首を振ったゴパルが話を続けた。
「後で、カルナさんが仕込んだ菌床の状態を確認しましょう。私の研究室にも知らせないといけませんしね」
重ねて謝っているカルパナに微笑んで、二階の部屋へ向かうゴパルだ。その彼の背中に、アルジュンが声をかけた。
「わざわざ山を下りてきてくれたのに、済まねえな、ゴパル先生」
ゴパルが小さめのリュックサックを担ぎながら、二階へ上がる階段の途中で振り返った。ちょうど二階から中国人観光客が数名下りてきたので道を譲る。
「いえいえ。仕事が一つ片付いたので良かったですよ」
アルジュンが分厚い手で頬をさすりながら告げた。
「今は見ての通り部屋が満室でナ。ゴパル先生の部屋もチャイ、夕方から予約客が泊まる事になってるんだ。それまでの間だけ、部屋を使ってくれ」
ゴパルが少しの間考えてから答えた。
「なるほど。そういえば、途中の民宿も満室だったような。さすが観光シーズンの最盛期ですね。分かりました。ナヤプルまで下りて宿を探しますよ」
ゴパルが汗を流して着替え、それから食堂に下りてネパール定食を食べ終えた頃に、カルナがカルパナを連れて外から戻ってきた。着替えを入れたカゴを持っている。
カルナがゴパルを見て、満足そうに笑った。口は『への字』のままだが。
「お、ちょうど良い時に戻ってこれたかな。ちょっと待ってて、着替えを部屋に持っていくから」
ゴパルが水を一気飲みして、近くの洗面所で手を洗いながら小首をかしげた。
「ん? 温泉にでも浸かっていたのですか? 結構混雑しているように見えましたが」
カルパナが穏やかに微笑んだ。そういえば、湯上り美人の雰囲気が出ている。
「この時間から空くそうですよ。観光客が一斉に移動する時間になるとか。それほど混んではいませんでした」
カルナが上機嫌で軽く首を振った。これは肯定的な首振りだ。
「今から出発すると、ナヤプル経由でポカラへ夕方に着けるし、チョムロンにも着けるのよ。ゴパル先生、そういう訳だから少し待っててね」
手を拭きながら、カルナとカルパナを見送るゴパルだ。
「さすが地元民だな。この時間帯は空いているのか。私も参考にしよう」




