ABC到着
その晩はセヌワで泊まって、アンナキャンプもといABCに到着したのは翌日の夕方前だった。民宿ナングロのアルビンに挨拶して、宿帳に記載する。
「ふう。結構慣れてきたような気がする。荷物が軽いせいもあるかな」
アルビンが部屋の鍵をゴパルに手渡して、愉快そうに微笑んだ。彼が被っている毛糸の帽子が、一回りほど大きくなっているような気がするゴパルだ。
「おかえりなさい、ゴパル先生。今回は粟のディーロを用意していますよ」
ディーロと聞いて垂れ目をキラキラさせるゴパルだ。
「お、良いですね。楽しみです」
アルビンがニコニコしながら、ゴパルに聞いた。
「チャッテ祭ですね。川の水に浸かりに行くんでしたら、お供しますよ。氷河のほとりに、絶好の沐浴ポイントがあるんですよ」
ゴパルが両手を力なく振りながら両目を閉じた。
「すいません、ごめんなさい。死んでしまいます」
首都から持ってきたバクタプール酒造のサンプルは、どれも割れたり漏れたりしておらず無事だった。それらをとりあえず、自室に設けた氷冷蔵庫に入れる。まだ低温蔵は建設中だ。
「無事で良かった。気温は八度か……やはり氷河のそばは寒いなあ」
その時、ゴパルのスマホにチャットが届いた。スマホを取り出して確認したゴパルが、少し呆れ気味に感心している。
「すごいな。もうヒラタケ栽培の仕込みを始めたのか、カルナさん」
チャットに返信文を送って、スマホをポケットに突っ込んだゴパルが、垂れ目を輝かせた。
「さて、お待ちかねのディーロだ」
ディーロ、ディーロと鼻歌を歌いながらゴパルが民宿の食堂へやって来て、空いている席に座った。
さすがに今は観光シーズン真っ盛りなので、食堂はほぼ満席だ。半数以上は欧米人で、これに中国人とインド人、それに若干の日本人観光客が混じっている。ほぼ全員がビールやウィスキーを飲んで談笑している。インド人では飲酒している者は少ないようだ。
しかし、よくよく耳を傾けてみると、食事内容に文句を言っている客が多いように思えた。欧米人観光客はピザの出来が悪いと言っているし、中国人ではこんなのは焼き飯じゃないとか言っている。日本人は米が不味いの一点張りだ。インド人はやはり香辛料の使い方がなっていないと辟易している。
(標高4100メートルですからねえ……近くに村も無いし。食材は全て強力さんが担いで運びあげている訳ですし、食事が粗末なのは仕方がないと思いますよ)
一応、アンナプルナ街道の民宿やレストランでは統一メニューが決められている。場所に関わらず食事の内容を保つためなのだが、実行するのはなかなか難しいようだ。
とにかくもディーロと卵カレー、ダルと葉野菜の香辛料炒めを食べ始めるゴパルであった。マンゴのアチャールと輪切りの生タマネギも付いているので、ネパール定食としてはちゃんとしている。
「うん、これこれ。粟のディーロにはギーも使ってるんだね。贅沢だな」
ギーというのは、ここでは水牛乳から作った澄ましバターの事だ。ネパールではあまり水牛乳が流通していないので、一般に使われているのは普通の乳牛の澄ましバターになる。薪や木灰の香りがするので、チョムロンかガンドルンの農家が作ったモノかな、と思うゴパルだ。
食事を終えて水を一気飲みして寛いでいると、アルビンがニコニコしながらやってきた。厨房で料理もしていたようで、少し汚れたエプロンを腰に巻いている。足元は軽登山靴なので、歩くとゴツゴツと音がしている。
「ゴパルの旦那、ディーロはどうでしたか?」
ゴパルがニッコリと笑ってうなずいた。
「はい。とても美味しかったですよ。水牛のギーを使っていたのですよね、とても口当たりと香りが良かったですよ」
アルビンがほっとした表情になった。
「それは良かった。うちのディーロはネパール人客に喜ばれているんですが、そのネパール人客が今の時期は少ないもんで」
ゴパルが食べ終えた食器を食堂スタッフに渡して、アルビンに聞いた。
「やはりインド人観光客はディーロを食べませんか」
アルビンが軽く首を振った。これは肯定の意味合いだ。
「ですね。インドではまだまだ雑穀は不浄扱いだったり、貧乏人が食べる食材という認識ですね。どちらかというと、欧州の観光客の方が好んで注文している印象ですよ。米国人はひたすらシリアルとオートミールですね」
ゴパルが同意して、同じように首をすくめた。
「海外の学会の懇親会でも、似たような感じです。さて食事も済みましたし、低温蔵の建設現場へ行こうかな」
アルビンが穏やかに笑った。
「お茶くみ小僧の撮影監督さん、頑張ってくださいね」




