ツクチェのリンゴ
会員席に戻ってマルゲリータピザを三人前で頼むゴパルであった。飲み物はさすがにワインという訳にはいかなかったので、紅茶だ。
ゴパルがカルパナにとりあえず聞いた。
「カルパナさん、この紅茶はリテパニ酪農の秋茶ですか?」
カルパナが挨拶攻めから解放されたのか、ほっとした表情を浮かべながらうなずいた。
「はい、そうですね。夏茶もまだ残っているはずですが、秋茶に切り替わってきていると思います。この後は、シャンジャ産のコーヒーの季節になりますね」
なるほど、とうなずいたゴパルが、緊張して座っているビカスに顔を向けた。
「では、ビカスさん。話を承りましょう。私はツクチェには行った事が無いので、できるだけ具体的に話してくれると助かります」
ラーラーが混じるので、要点を書きだすと以下のようなものだった。
カルパナが行っているミカン復活実験でKLを使うという話が、ジョムソン街道にも流れてきたらしい。ミカンとリンゴとでは樹種も栽培環境も違うのだが、興味を持ったという事だった。
ゴパルとカルパナが顔を見合わせて、ジョムソン街道にまでKLの事が伝わり始めている状況に驚いている。
ゴパルが申し訳なさそうな表情になって、ビカスに告げた。
「ビカスさん。さすがにツクチェは遠いです。技術指導がきちんとできるとは思えません。KLに興味を持ってくれた事は非常に嬉しいのですが」
カルパナも困ったような表情をしている。
「ポカラからツクチェまでは、小型四駆便でも一晩かかります。KLを使うには糖蜜や米ぬかが必要ですよ。最寄りの町といえばバグルンやベニー、クスマですが、稲作やサトウキビ栽培は盛んではありません。コスト高になってしまうと思いますよ」
ニッコリと素朴な笑顔を浮かべるビカスだ。日焼けして顔が黒褐色なので、白い歯がよく目立つ。
「それには及ばないラー。ジョムソンやマルファとかで養鶏や養豚なんかが盛んになってるんラ。餌に米ぬかを使ってるんラー。安く買えるんラよ」
ラーラーうるさいのだが、グルン族のチャイに慣れているので普通に聞いているゴパルとカルパナであった。
ジョムソン街道は観光地化されていて、外国人観光客に人気だ。少々値段が高くなっても豚肉や鶏肉、それに卵の需要は大きいのだろう。
チベット以外の土地で気軽にヒマラヤ山脈の北側に行ける場所は、インドやネパール、ブータンを探してもこの街道くらいだ。西部ネパールにもあるのだが、そこは入域制限地域になっている。
さらにビカスが話を続けた。
「ラビン協会長とサマリ協会長から、ワシでも使えるスマホを近々もらうんラ。まあ、実際の操作は息子や娘に任せるラ。そいつを使って、テレビ電話ってヤツをすれば問題ねえラー」
カルパナがゴパルに補足説明をしてくれた。
「サマリ協会長さんは、ジョムソンのホテル協会の会長さんです。ラビン協会長さんと同じタカリ族の方ですよ」
ふむむ、と考え込むゴパルだ。テレビ電話は石窯作りの時に使った事がある。ツクチェは田舎なので、画質や通信速度は落ちてしまうのだろうが……。
「なるほど。やってみる価値はありそうですね。私はアンナキャンプに長期滞在する予定ですから、テレビ電話が機能すれば非常に便利になります」
標高差三千メートルの上り下りは、やはりできれば避けたいゴパルであった。ダイエットには効果的かも知れないが。
カルパナもテレビ電話を試してみる事に同意してくれた。その上で、申し訳なさそうにゴパルを見ている。
「そうですね……ゴパル先生を何度もお呼びするのは、避けるべきなのでしょうね」
そして、視線をビカスに向けた。
「でしたら、畑を見て回りましょうか。実際にKLを使っている様子を見た方が良いと思います」
ビカスが照れ笑いを浮かべて白い歯を見せた。
「そりゃあ助かるラー。あ、でも今日はこの後すぐにマテパニ寺院へ詣でるつもりなんラ。目当ての坊様がその時間にしか寺に居ないって、さっきのチベット人から聞いてボ。また後日、改めて畑を見せてくれ」
ビカスの口調にグチが混じり始めた。
「今の普及員さんはリンゴの育て方とか知らないんで、とっても困ってるんラよ」
マテパニ寺院はチベット仏教の寺院だ。ちょうど道路を挟んでバドラカーリー寺院と向かい合っている。その近くにはイスラム教のモスクもあるので、宗教色豊かな地区である。
(仕事よりも坊様を優先かあ……まあ、カブレの叔父叔母達と同じだなあ)
何となく親近感がわくゴパルであった。スヌワール家はヒンズー教徒なので、同じカブレの町に住むバフン階級の人に司祭をお願いしている。
(リンゴかあ……また育種学研究室のラビさんに聞いて勉強しないといけないかな)
ゴパルがそう考えている横で、カルパナが小首をかしげながらビカスに聞いた。
「ツクチェのリンゴですが、日本の援助が長い間入っていましたよね。その伝手は使えませんか?」
ビカスが残念そうに頭を振った。
「んー……撤退しちまったラー。援助隊の若造は物の役に立たねえし。ツクチェで仕事をするのにタカリ語が話せないとか、どうしようもないラ」
ゴパルとカルパナも話せないのだが。
まあ、確かにビカスが話すネパール語には、チベット訛りが混じっているので注意して聞く必要がある。初歩のネパール語しか習得していない外国人では、意思疎通に苦労しそうだ。
ビカスの話によると、ツクチェや周辺の町では今も日本の援助に感謝している人が多いらしい。
「だけど、ワシは微妙な気持ちなんラ」
彼らによる農業開発と学校援助が、強引だったという印象を持っていると言う。リンゴの苗も野菜の種も日本から輸入していたらしく、援助が終了すると共に苗や種の供給も途絶えたと文句をこぼしている。
「日本米とか連中の趣味で持ち込んだだけなんラよ。ワシらはツァンパ用の小麦やソバの種が欲しかったんだボ。他の国の援助隊もろくな事しないし、おかげでワシは外国人が嫌いになったラー」
カブレでも外国の援助隊や事業が多いので、内心で同意するゴパルであった。
数年後に援助が終了すると、技術が根づかずにそのまま立ち消えて終了……という話ばかりだ。ピックアップトラックや耕うん機の残骸が残るだけである。
「まともにネパールに根づいたのは、ヘランブー地区のニジマス養殖や、カカニ地区の大根とイチゴくらいかなあ……農業や畜水産は難しいと聞きますね」
カルパナも遠慮気味にうなずいた。
「ネパールは標高差が大きいですから。雨が降らないジョムソン街道でしたら、なおさら難しいと思いますよ」
ビカスが白い歯を見せながらニッコリと笑った。
ちょうど注文したピザが飲み物と併せてやってきた。ナイフとフォークを手にして、目を輝かせるビカスだ。さすがに外国人観光客が来るツクチェの出身だけあって、テーブルマナーも心得ている。
「KLは国産だから安心ラー。んじゃ、ピザ食うかー」
食事後、ビカスはその足でチベット寺院へ詣でると言ってゴパル達と別れた。ビカスの後ろ姿を見送ったカルパナが、ゴパルにそっと教えてくれた。
「ビカスさんは日本人が苦手のようですが、首にタオルを巻くのは日本人がよくやっています。便利な点は取り入れていますから、彼が言うほど嫌いではないと思いますよ」
ゴパルもカルパナに同意した。
「ですよね。農家でありながらポカラまで新しい事を学びに来るというのは、なかなかできませんよ。ですが、ヒマラヤ山脈を越えてのテレビ電話ですか……上手くいくと良いですね」
ツクチェはアンナプルナ連峰とダウラギリ連峰との間の、深い谷間にある町だ。両連峰ともに標高八千メートル級の壁である。それが東西にそびえ立っている地形だ。
カルパナも静かにうなずいた。
「はい。ポカラ工業大学のスルヤ先生にも、この事を話してみますね。何か良い方法があるかもしれません」
そして、スマホで時刻を確認した。学生達が大勢ピザ屋の前に集まってきている。学生のたまり場になっているので、それにつられて外国人観光客も集まってきていた。今はもう、店内は満席だ。
「夕食までまだ時間がありますね。シスワまで行きませんか? イチジクの収穫は終わってしまいましたけど、パッションフルーツの収穫が始まっていますよ」
ニッコリ笑って賛成するゴパルだ。
「良いですね。ぜひ連れて行ってください。ちょっと酸っぱい物が欲しいなと思っていたんですよ」




