低温蔵
食事後、急いで低温蔵の建設現場へ向かうゴパルだ。既に外観は完成していて、今は壁の塗装をしている最中だった。作業員達は半数が現地の民宿街の従業員で、残り半数が強力隊の面々のようである。
ゴパルが彼ら一人一人に合掌して挨拶をしていく。
「朝早くからありがとうございます。あなた達の本業に支障が出ない程度で構いませんので、よろしくお願いしますね」
続いて、アルビンと一緒に低温蔵の中へ入る。そこで電気の配線や水道管、それに隣接する民宿ナングロの厨房から引いている温水パイプの配管状況を確認した。ゴパルがスマホで撮影して、工事の進捗状況を記録する。
ゴパルが温水のスチール管に手を近づけて、危うく引っ込めた。
「うわ。かなり熱いですね。これなら暖房用に十分使えそうですよ、アルビンさん」
アルビンがちょっとドヤ顔になって満足そうに笑った。
「でしょ? 我ながら良い出来だと自負していますよ。このままだと配管から熱が漏れ出てしまうんで、後で断熱材で管を巻いておきますね。優れもので、ここやマチャキャンプの宿でも使われていますよ」
これも宇宙エレベータの開発素材の流用という事だった。結構な量の端材が流通しているようである。ゴパルが塗装された壁に手を当てて、もう一度室内を見渡した。
「これなら、実験機材を運び入れても問題なさそうですね。ディワシュさんとサンディプさんに運送の日程を相談するとしようかな」
そこへ、当のサンディプがフラフラしながら低温蔵の中へ入ってきた。やはり二日酔いだったようで、足取りがまだおぼつかない様子だ。顔色もあまり良くなく、目の下にはクマが生じている。
「おう、ゴパルの旦那。おはよう。機材の搬入かナ。いつ運ぶんだい?」
サンディプの身長は百七十センチほどでゴパルと同じだ。しかし、顔が四角い上に首回りを含めた全身の筋肉の盛り上がりが見事なので、より大きく見える。今はいつもの迫力に乏しくなっているようだが。
ゴパルが合掌してサンディプに挨拶してから、スマホを取り出して日程を確認した。
「そうですね……首都からの陸送会社の都合は大丈夫ですので、いつでもナヤプルに届ける事ができますよ。ディワシュさんと相談して、いつでも都合が良い日程でアンナキャンプまで運び入れてください」
ここでゴパルがスマホで、リストに並んでいる機材の状態を確認した。
「機材は全て分解されて個別梱包されていますね。少々落しても問題ありませんよ」
サンディプが筋肉で盛り上がったたくましい肩をグルグル回して、軽く呻いてからゴパルに笑顔を向けた。
「了解だ。今月は大忙しなんだがチャイ、こまめに運び入れるとするよ」
そう言って、早速ポケットからスマホを取り出して電話をかけ始めた。ディワシュと相談するのだろう。言葉がグルン語に切り替わったので、ゴパルには聞き取れないのだが、多分そうだろう。
ゴパルがアルビンに顔を向けて頼んだ。
「機材の搬入が終わってから、低温蔵のドアや窓を取りつけてください。できれば、室内照明も搬入が終わってから設置してくれた方が良いかも」
アルビンがニッコリと微笑んだ。一重まぶたの目が細められて、目を閉じているようにも見える。大きな毛糸の帽子の中から伸びている長髪の先が踊っている。
「分かってますよ。内院では物を大事にしないと、女神アンナプルナから叱られてしまいますからね。この時期でも暴風雪や雪崩が起きますから、仕事は早め早めに片づけるのが無難です」
そう話しながら、アルビンが何か思いついたようだ。細められていた目が開いて、黒褐色の瞳が見えた。
「ああ、そうだ。ゴパル先生、水源地の様子も撮影してはどうですか? 来月になると、行くのに難儀しますよ」
ゴパルがスマホの写真ライブラリを一通り確認してから同意した。
「そういえばそうですね。二か月ほど前に一度撮影しただけでした。しかも夜中ですし。では、ちょっと登って見てきます……ん?」
ゴパルのスマホに電話がかかってきた。サンディプとアルビンに断ってから電話を取る。
「はい、ゴパルです。カマル社長さん、どうかしましたか?」
電話を続けるゴパルの表情が、みるみるうちに困惑した印象に変わっていった。電話自体は一分間もかからずに終わったのだが、ゴパルの表情は変わらない。
少しの間何か思案していたゴパルだったが、申し訳なさそうにアルビンとサンディプに告げた。
「すいません。首都のワイナリーからの電話でした。今年採れたブドウを使ってのワインの仕込みを始めるそうです。そのサンプルを採取しないといけなくなりました」
次第にゴパルの声が小さくなっていく。
「本来なら上官のクシュ教授が担当するのですが、またバングラデシュに出張していまして……」
研究室の三人の博士課程達も、自身の研究にかかりっきりの様子だ。ダサインとティハール大祭の間、研究が止まっていたので挽回するのに大変という状況らしい。一応はその間ゴパルが自転車で大学に通って彼らの研究を支援していたのだが、それだけでは不十分だったようだ。
(やっぱりこうなったかあー……おのれクシュ教授)
サンディプがキラリと目を輝かせた。
「おお、ワインか。酸っぱいけど美味いな。何本か土産に買ってきてくれや」
現在進行形で二日酔いなのだが、めげないサンディプである。アルビンもニコニコしている。
「そろそろホットワインの需要も増える時期ですね。安いワインなら何でも大歓迎ですよ」
曖昧な笑みを浮かべるゴパルであった。ここまで運び上げる担当は、ゴパル自身になりそうな予感を感じる。
強力隊に頼んでも良いのだが、残念ながらゴパルは金欠だ。低温蔵の研究費の経費で落とせるとも思えない。
「そ……そうですね。カマル社長に聞いてみます」
その後、水源地まで岩だらけの急斜面を登っていくゴパルであった。登山コースではないので道らしき道もなく、水の配管をたどるしかない。
「この水道管、材質が金属ではないな。なんだろう……おっと、足元が崩れた」
足元の石で足をひねらないように注意しながら、慎重に登っていく。
(カルパナさんには内緒にしておこう。今日は風もなくて登りやすいな。視界も良好だ)
確かに、目を転じればアンナプルナ連峰の北の峰々の絶景が拝める。しかし、足元が岩だらけなので周囲を見て登る余裕がない。
そして、前回登った時と同じく登るにつれて、今回も突風めいた上昇気流が吹き上げ始めてきた。時々体が浮き上がるように感じる。
つい先ほどまでの気楽な表情はどこへやら、冷や汗をかき始めるゴパルだ。
(やっぱり、カルパナさんの言う通り危険だな。水源を確認したらすぐに下りよう)
その水源は、前回と同じ場所にあった。黒い土砂に染まった氷河の縁に、コンクリート製の溜め池が掘られている。
前回は暗くてよく見えなかったのだが、コンクリートは壁面だけに使われていて、底面は岩石と氷河由来の粘土で覆われていた。
水温を測って、スマホのメモに記録する。
「二度か。アルビンさんの言う通り、水温が安定しているんだな。溜め池が凍結するまでは使えそうだ」
パイプの配管を見ると、凍結時でも氷河の底を流れる水を採水できるように工夫されているようだ。斜面の上の方を見上げると、氷河の横に万年雪が積もった雪渓があり、その周囲に新雪らしきものが積もっている。
(あのあたりは標高五千メートルくらいかな。来月からは、この水源地にも雪が積もりそうだ。そうなると、ここへ登ってくるのも無理になるか)
観光客向けの登山道であれば大丈夫なのだが、ここは岩石だらけだ。雪で覆われると、足をくじいてケガをする恐れが高まる。内院には病院は無いので、強力隊に担いでもらって下山するしかない。
簡易だが、溜め池に流れ込む雪解け水の流量も測定した。小さなピンポン玉を一メートルほど流して、それをカメラで撮影するだけの簡単な測定だ。
「誤差が大きいけれど、まあ、参考値としてね。さて、仕事はこんなものだな。さっさと下りよう」




