アンナキャンプ
さすが観光シーズン最盛期だけあり、アンナプルナ街道は観光客だらけになっていた。ナヤプルからセヌワを経由してアンナキャンプまで登ったのだが、いつも視界に観光客が見えるほどだ。
まずセヌワに泊まったのだが、宿のオヤジのニッキが大忙しで、落ち着いて話す状況ではなかった。
セヌワの集落から期間雇用した爺さんや婆さんに、部屋の掃除や洗濯の指示を次々に出している。食堂でチヤをすすっているゴパルに、頭をかいて謝った。
「すまねえナ、ゴパル先生。飯はそろそろ出来上がる頃なんでチャイ、もう少し待っててくれ」
ゴパルが食堂にあるテレビの音楽番組に耳を傾けながら、気楽な声で答えた。
「今晩はもう眠るだけですので、急がなくても構いませんよ」
ニッキの話によると、カルナは実父のアルジュンが経営しているジヌーの民宿で大忙しのようだ。ニッキはアルジュンの兄なのだが、他の親戚の子供達を数名ほど期間雇用して対応しているそうだ。
「でも、児童労働なんでチャイ、こんな夜まで働いてもらえないのが難点だナ」
そう苦笑気味に答えたニッキが、食堂でピザを食べている欧米人の観光客にビールを届けに行った。実際、食堂の中は満席だ。半分が欧米人で、残り半分が中国人とネパール人の割合になっている。
(ネパール人の観光客も増えてきているんだな。まあ、格安で利用できるからね)
アンナプルナ保護地域への入域料は、ネパール人観光客に対しては百円ほどの料金になっている。インド圏の観光客では千円ほど、その他の外国人では三千円ほどになる。
人気が高いエベレスト街道では、これに加えて地元自治体による入域料や施設利用料が別途加算される。関所みたいなものだ。
なお、入域制限地域へ入る際には他に許可申請が必要だ。申請が認められた場合のみ入る事ができる。アンナプルナ連峰では、北側地域がそれに該当する。チベット系住民が多く住む地域だ。
ネパール人観光客は乗り合いミニバスや小型四駆便をよく利用するので、その料金に上乗せされて支払っている。乗車チケットが入域料の領収書を兼ねている。ちなみに、ゴパルは大学の研究という事で無料だ。
料理を待つ間に、小型四駆便のディワシュ運転手や強力隊長のサンディプに、チャットでセヌワへの到着を知らせた。電話してもこの時間は酒宴の最中だろう。
明日到着する予定であるアンナキャンプにある民宿ナングロのアルビンにもチャットで知らせるゴパルだ。
(アルビンさんも、今は大忙しだろうからね。電話すると迷惑になる。セヌワまで登ってきたと知らせるだけで十分だろう)
民宿ナングロでも部屋を年間契約で借りているのだが、前もって知らせておくのはマナーだ。
さて、予定通りに翌日の夕方早くにアンナキャンプに到着したゴパルであった。吐く息が白くなっている事に気がついて、高地に来たなあと実感している。アンナプルナ街道の終着点でもあるので、欧米人や中国人を中心にして人が多い。
民宿街はセヌワのように一か所にまとまっているので、英語や中国語といった様々な国の言葉が乱れ飛んでいる。
夕方なので、早くも食事と酒を野外席で楽しんでいる観光客も増えてきていた。気圧が低いので、料理には制限があるようだが。
「道に慣れてきたのかな、今回はあまり疲れなかった」
ゴパルが北西に屏風のようにそびえ立つアンナプルナ主峰の絶壁を見上げた。ここからでは氷河までは見えないのだが、それでも氷雪に覆われた巨大な壁は十分に堪能できる。ゴパルが思わず立ち止まって、スマホを取り出した。
「夕焼けに輝いてる。圧巻だなあ……」
ゴパルが立っている民宿街は既に日陰に入っているので、アンナプルナ主峰の神々しさが強調されていた。夕日を反射して輝いている。
アンナプルナ主峰は、内院の盆地から頂上までほぼ絶壁となっているので、実に四千メートル近い高さの壁になっている。既に半分ほどは日陰になっていたのだが、それでも上半分の二千メートルの壁は橙色に輝いていた。
スマホのカメラを向けたゴパルであったが、反射光が強すぎたせいかピンボケ写真しか撮れなかった。
「うう……ダメか。このスマホのカメラは接写向けに調整されてるからなあ」
実際に、周辺で撮影している人達は皆、立派なカメラを構えている。レンズだけで百万円くらいしそうな高級品ばかりだ。
ゴパルがため息をつきながらピンボケ写真を消去して、仕方なく宿へ急ぐ事にした。というか、民宿ナングロのアルビンが、既にゴパルの姿を見つけて手を振っている。頭をかいてスマホをポケットに突っ込んだゴパルが、手を振り返した。
「見られてしまったか。写真も満足に撮れないとか、また話題になるんだろうな。ははは……」
部屋は契約通りに使えたので、その晩はゆっくりと休む事ができたゴパルであった。前回まで山のようにあった荷物は片付いていたので、部屋の中の移動が簡単になっていた。
ただ、亜熱帯のポカラから二日後に氷河のそばまで来たので、夜の冷え込みに閉口する事になったが。
朝になり、朝食を摂りに食堂へ赴いたのだが、防寒着を着込んだせいで丸々になっていた。クシュ教授の手配に感謝しつつも、慣れない寒さに体がまだ戸惑っているのを実感する。
「さすがにカルティック月の終盤だなあ。冷え込みが早いや」
カルティック月は、西暦太陽暦で十月半ばから十一月半ばまでの期間に相当する。首都でもこの時期から最低気温が下がり始めるのだが、さすがに標高4100メートルの盆地では強烈だったようだ。
民宿ナングロのアルビンに挨拶をすると、すぐにチヤとビスケットが用意された。それを食堂でかじるゴパルだ。
既に欧米人を中心にした外国人観光客が大勢起きていて、朝食を摂っている最中だった。彼らはオートミールやシリアル中心なので、高地でも問題なく食事を楽しんでいるようだ。
中国人は粥が無いので文句を言っているようだが。ネパール人観光客も朝が早いようで、揚げパンの一種であるプリと、豆のダルを食べていた。
ゴパルに汁麺を手渡したアルビンが、チヤのお替りを注いでくれた。
「だいぶ道と高度に慣れてきたみたいですね、ゴパルの旦那。もしも先生を失業しても、強力隊で稼ぐ事ができますよ」
ゴパルが恐縮しながら、汁麺のスープを口に運んだ。
「いやいやいや……この寒さは堪えますよ。もうしばらくの間は、気温に慣れる必要がありそうです」
ゴパルがもう一口すすってから、話を続けた。
「強力隊といえば、サンディプさんは元気ですか? チャットで挨拶したのですが、朝になっても返信が無かったもので。運転手のディワシュさんからは返事が来たんですけれど」
アルビンが他の客にチヤとシリアルを渡してから戻ってきた。軽く肩をすくめて、一重まぶたの目を糸のように閉じている。細くて短い眉の動きもぎこちない。
「あはは……ヤツなら二日酔いで、隣の民宿の倉庫で転がっていますよ。昼過ぎには復活しますんで、ご心配なく」
そして、にこやかな笑顔でゴパルに聞いた。
「もう、低温蔵の建設工事が始まってますけど、見に行きますか?」
ゴパルが頭をかいて両目を閉じた。
「あ。もう始まってたんですか。すいません。食べたらすぐに向かいます」




