エッグベネディクト
「まずはポーチドエッグから」
サビーナが、ホーロー鍋に水と酢を入れて火にかけた。水の量は約二リットルほど、酢は百二十ミリリットル程度だ。
「酢を使うから、アルミ製なんかの金属鍋は避けた方が良いかな。湯が沸いてきたら弱火にして、お玉なんかを使って湯をかき混ぜて渦を作る。その渦の中に、生卵を入れる。こんな感じね」
サビーナが小さなボウルに、生卵を一個そっと割り入れた。黄身の細胞が潰れないように、落ちる高さをなるべく低くしている。
それを、沸き立っている湯の渦の中にそっと流し入れた。お玉を使ってゆっくりと湯の中を泳がせていく。
「二分間くらい茹でたら、引き揚げて冷水の中へ入れる事」
すっかり白く固まった卵を、お玉ですくい上げた。それをすぐに、氷がいくつか浮かんでいる冷水が入ったボウルの中へ移す。
「続いて、二個目の卵を入れるわね」
間もなく二個目の卵も茹で上がり、冷水の中に漬けられた。
「次は、オランデーズソースを作るわね」
サビーナがボウルに卵黄三個を入れて湯煎にかけた。これを泡だて器を使ってかき混ぜていく。
「人肌くらいの温度になったら、湯煎から外した方が良いわね。で、後はひたすらかき混ぜて、もったりした状態になったら準備完了。こんな感じね」
レカのカメラにクリーム状態の卵黄を見せた。
レカが接写している間に、サビーナが電子レンジにバターを七十グラムほど入れた。スイッチを入れて温めて溶かす。
溶けたバターの上に張っている薄膜を取り除く。さらにバターから水が染み出ているので、それも取り除く。こうして残ったバターの脂を、澄ましバターとして使う。これを数回に分けて、ボウルの中のクリーム状の卵黄に加えて混ぜていく。
サビーナがバターを全て混ぜ終えて、スプーンですくって垂らした。液面に筋が残る。
ちなみに、もし固くなってしまった場合には、湯煎に入れてかき混ぜると良い。こうする事で修正ができる。
「こんな感じね。後は、これにレモン汁と皮のみじん切りを加えて、塩コショウを振って味を調える」
使い捨てのスプーンを使って味見し、軽くうなずいた。
「ん。まあ、こんなもんかな。レモン皮だけど、白い苦皮は取り除いておく事。種も入れるんじゃないわよ。これでオランデーズソースの完成」
ソースが入ったボウルを、ぬるま湯にした湯煎に入れて保温した。
余談になるが、これを使ってベアルネーズソースを作る事もできる。
エストラゴン、白ワイン、潰した胡椒、白ワイン酢等を煮詰めて、オランデーズを加え、こすと完成だ。それにトマトピュレなどを加えてピンク色にしたものが、ショロンソースになる。
サビーナが冷蔵庫の中から厚切りベーコンを二枚取り出した。軽いジト目になりながら、小皿の上に置いて塩コショウする。
「本来なら、ポカラ産を使うんだけどね。臭いから輸入品で代用するわね」
ゴパルが苦笑した。
(よっぽど不味かったんだろうな……っていうか、撮影中にそんな事を言って大丈夫なんだろうか)
カルパナとレカも似たような反応を見せている。
クリシュナ社長とラジェシュは、養豚団地のギャクサン社長と知り合いなので、反応に困っている様子だ。カルナはキョトンとしている。
サビーナが鍋に水を入れて火にかけ、フライパンに菜種油を注いで火にかけた。
「それじゃあ、先にズッキーニの花を揚げるわね」
二個のズッキーニの花を調理台の上に置いて、花の雄しべをハサミで切り取った。花の中と外を念入りに水洗いしてから、水切りをする。
ゴパルは黙っていたが、雄花には多種多様な微生物が生息している。花粉を食べる虫によって、外部から持ち込まれる微生物も多い。なので、念入りに水洗いする事は理に適っている。
サビーナが冷蔵庫からモッツァレラチーズを取り出した。二十グラムずつの二個だ。それを一個ずつ花の中へ押し込んでいき、楊枝を使って花の口を縫い閉じた。この花に、水で溶いた小麦粉を塗って衣を付けていく。
サビーナが沸騰した湯の鍋を弱火にした。続いて、水で溶いた小麦粉を数滴垂らしてフライパンの油の温度を確かめた。
「ん。ちょうど良い温度ね」
モッツァレラチーズを包んだズッキーニの花を、油の中へそっと入れて揚げていく。花なのですぐに揚がり、網の上に置いて余分な油を切る。
油を一時保管の管に移して、今度はベーコンをフライパンで炒め始めた。香ばしい香りがキッチンに漂い始める。
「せっかくだから、ちょっと手をかけてみようかな」
サビーナが、タマネギ、パプリカ、キュウリ、トマト、パセリ等の使いかけの切り残しと、少し古くなって固くなったパンを一片、冷蔵庫から取り出して、あっという間にみじん切りにしてしまった。それらをまとめて小皿に移す。
さらに、鍋に沸かした湯の中に、ポーチドエッグを二個入れて温めた。これは、あまり熱を通し過ぎると黄身が固くなってしまうので、さっと温めるに留めているようだ。
ベーコンが炒め上がり、火を消したフライパンから取り出してイングリッシュマフィンの上に置いた。このマフィンは既に皿の中央に置いてあって、上下二つに切られてある。
その上に、湯から上げて軽く水切りを済ませたポーチドエッグを乗せていく。
「最後に保温していたオランデーズソースを、上からかけて完成。後はガスパチョだけね」
サビーナがズッキーニの花の揚げ物を、ガスパチョ用のやや深いスープ皿に入れた。
続いて、冷蔵庫に入れて冷やしておいたガスパチョを取り出し、花の揚げ物の上からスープ皿に注いでいく。
これに、みじん切りにした野菜と古パンを振りかけて、最後にオリーブ油を垂らした。
「さっき味見した油から、一つ選んでみたのよ。油の花だから、ガスパチョにはちょっと贅沢になるかもね」
サビーナがカメラの前に、二人前の料理を揃えて出した。
「はい、完成。空腹でフラフラなのは分かるけれど、ちゃんと撮りなさいよレカっち」
力なく片手を振るレカであった。それでもしっかりと撮影を続けている。
「お~……」
さて、試食というか味見であるが、エッグベネディクトとガスパチョなので、特に感激するような反応は起きなかった。不機嫌になるサビーナである。
「あのね……あたしがわざわざレストランの厨房から抜け出してきてるのに、その無反応は何なのよ」
どうやら『抜け出してきた』らしい。今頃は、ギリラズ給仕長達が苦労しているのだろうなあ……と想像するゴパルだ。彼は厨房ではなく客席担当なので、実際に今苦労しているのは厨房スタッフなのだが。
「ズッキーニの花は珍しかったのですが、揚げているので花の味がしませんでした……ちょっと拍子抜けしたという印象ですね。でも、オリーブ油の香りはすごく良かったですよ」
クリシュナ社長とラジェシュ、それにレカも大いに同意している。
「さすがは油の花だな」
「ですよね、さすがですよねー」
「足りないー、もっと食わせろーばかー」
三人ともに、料理の感想は一言も発していない。レカに至っては、料理の量にしか言及していない。ある意味で清々しい。
カルナがサビーナの肩をポンと優しく叩いて慰めた。
「オリーブ油が強すぎて、料理の味が全部吹っ飛んでしまいましたよね。ご愁傷さまです、サビーナさん」
最後にカルパナがクスクス笑いながら、もう一方の肩に手を添えた。
「レストランの客に出す前に分かって良かったじゃない。ブレンド大変だろうけど頑張ってね、サビちゃん」
サビーナが涙目になってきた。顔は怒っているままだが。
「あんたらねー! いいわよ、いいわよ、もう。今年のオリーブ油の風味が、こんなに強いなんて予想できるわけないでしょっ」
この場面は編集されてカットされるのだろうなあ、と微笑ましく思うゴパルであった。事務所のドア越しに見えるアンナプルナ連峰に視線を向けて、軽く背伸びをした。
「さて、アンナキャンプへ戻るとするか。もう寒いだろうなあ」




