パン用酵母
ここでサビーナが何か思いついたようだ。ゴパルに視線を投げた。
「そうだ、ゴパル君。ポカラのパンは、数か所のレストランやパン屋で一括して焼いてるんだけどね。発酵に使う菌が、全部輸入モノなのよ。国産に切り替えたいのだけど、できそうかしら」
ゴパルが腕組みをして考えた。
「そうですね……イースト菌は国内企業で作っています。ですが、様々なパンやピザ生地に対応した菌の商品開発は、まだ心もとないですね」
正直に答えている。
「現状では、海外からパンやピザ生地の用途に応じた菌種を輸入する方が、安心だと思います」
ゴパルの答えをある程度は予想していたのか、それほど落胆の表情を見せないサビーナだった。
「そう。ネパールやインドじゃ、パン食は普及していないものね。発酵させるローティもあるけれど、種菌を使わない自然発酵で少数派だし。分かったわ。菌の安定輸入を心がけるとするか」
ゴパルが軽く手を上げて、追加した。
「ですが、微生物学研究室では色々な酵母菌を採集して保管しています。いくつかの菌種は、食品安全性の試験を終えていますよ。ですが、大量生産の体制がまだ整っていないので、少量の提供になりますが」
サビーナがキラリと目を光らせて即答した。
「それなら、お願いするわ。パンの種類が増えるのは大歓迎なのよ。ピザや菓子に使える菌もあれば、ぜひ提供してちょうだい」
ゴパルが少し意外そうな表情をした。
「興味津々ですね。それでは後日、野菜や果物の皮に付着している、野生の酵母菌を培養する簡略法を試してみましょうか。市販のイースト等の発酵用の酵母菌に混ぜる事で、特徴が出せると思いますよ」
これまた即答するサビーナだ。
「それも決まりね。準備が整ったら知らせてちょうだい。優先的に対応するわ」
サビーナとゴパルが熱心に菌の話をしているので、代わりに調理場を片付けて掃除を終えてしまったカルパナとカルナであった。二人ともパン食にはあまり縁が無いので、聞き流している。
カルナが水道で手を洗いながら、ゴパルに告げた。
「アンナプルナ街道の民宿では、欧米人観光客が多く泊まるけど、パンはポカラで焼いたヤツで間に合ってるわよ。ガンドルンにもパン屋があるし。パスタやピザ、それにクラッカーやシリアルを好む客の方が多い印象ね。腹持ちが良いんだと思う」
食パンはネパールでもオヤツ扱いなので、素直に納得するゴパルだ。
「そうだと思います。うちの研究室でも、そういう認識です。パンや菓子用の酵母菌の開発には、あまり力を入れていませんね。サビーナさんの要望が無ければ、重要度は低いままだったでしょう。今は、酒造用の酵母の研究開発ばかりです」
サビーナが真面目な表情になって腕組みをした。
「サンドイッチや、バーガー、それにフォカッチャといった軽食の需要は高いのよ。二十四時間営業のピザ屋でも、その手の要望が強いし」
フォカッチャというのは、イタリアのサンドイッチだ。食パンの代わりに楕円形のパンに切れ目を入れて、中にチーズやハム、サラミ等を詰める。
そんな説明を簡単にしてから、サビーナが腕組みしていた手を入れ替えた。
「ネパール人でも最近では、ピクニックにランチボックスを持って行く事が増えてるでしょ。冷めても食べられるサンドイッチって手軽だと思わない?」
なるほど、と納得するゴパル。
カルナとカルパナもピクニックと聞いて、心に引っかかったようだ。興味を示し始めた。
保温瓶型のランチボックスはあるのだが、量があまり入らない。香辛料炒めや煮込みも、時間が経過してしまうと香りが飛んでしまう。サンドイッチであれば、確かに手軽だ。
三人の関心が急上昇したのを見て、サビーナが腰に両手を当てた。
「ラビン協会長の話だと、間もなくポカラのあるレストランに、パン焼き専用の機械を導入するみたいよ。今ある数か所のレストランやパン屋では、ちょっと設備が古いのよね」
専用機械は、結構高価だったりする。メンテナンスの問題もあるのだが、何とかしたのだろう。
サビーナが軽く肩をすくめて微笑んだ。
「現状では、多品目で大量生産できる態勢じゃないの。その助けになるかと思って、ゴパル君に聞いてみたのよ」
色々と考えているんだなあ、と感心するゴパルだ。
空港も国際空港になって、欧米諸国からやって来る観光客も増えている。パンの需要が増えそうなのは予想できる。
一方のインド人や中国人観光客に対しては、ローティや粥で対応できるので、そんなに手間はかからないのだろう。




