仏塔にて
仏塔まではそれなりの登山道があったため、登りやすかった。前回は水道管に沿って斜面を登ったので、道と呼べるような状態では無かった。
それでも標高が高いので、息を切らしながらゆっくりと登っていく。
「アンナキャンプに一泊したから、高度順応できたかなと思ったけれど、まだキツイな」
何度も休みながら坂道を上っていくにつれて、土が無くなり、岩ばかりの荒野になってきた。周辺には草木がまばらにしか生えなくなり、生えていても岩と岩の間だ。
それでも、結構有名な観光地らしく、十数名ほどの外国人観光客が登ったり下りたりしている。ゴパルが彼らとすれ違いながら挨拶を交わし、視線を斜面の上方へ向けた。
斜面は一面岩だらけで、凍りついた雪も所々で残っている。
「アンナ南峰は、近すぎて見えないか」
今はアンナプルナ南峰の北斜面に居るのだが、坂の傾斜の影響で峰の頂上は見えなかった。
目を北へ転じると、アンナプルナ内院の風景が見下ろせるようになってきていた。
昔、氷河が伸びていた名残だろうか、巨大な砂丘がいくつもできている。砂丘といっても内容は岩石混じりの土砂なのだが。
氷河がいくつもアンナプルナ連峰の峰々から流れ出ていて、末端から泥色の川が伸びている。それらの泥川が合流して、アンナプルナ内院の中央でまとまり、マチャキャンプへ向けて流れていた。
「普通は、山の上流って清流という印象だけど、ここでは違うよね。最初から泥水の川だ」
もちろん、土砂は途中で沈殿していき、ジヌー温泉辺りまでくると清流と呼んでも差し支えない川になる。ただ、今年の雨期のように豪雨になると泥水に戻ってしまうのだが。
周囲の景色を眺めながら、ゆっくりと登っていくと、ようやく小さな仏塔に到着した。
やはり観光地のようで、十名ほどの外国人観光客がカメラやスマホを手に記念撮影をしている。彼らは仏塔にはそれほど興味は無さそうだったので、ゴパルは楽に仏塔に手を触れる事ができた。
仏塔の周囲には、色鮮やかな仏旗が百枚以上も風にはためいていて、バタバタと音を立てている。それらを避けて一息ついた。
「ふう、やっと着いた。思ったよりも丈夫に作られている仏塔なんだね。コンクリートも使われているのか」
仏塔には金属製のプレートも付けられていて、それを読むと、どうやら有名人の慰霊塔でもあるようだ。
ゴパルが地面に転がっていた石を一つ、仏塔の台の上に乗せて合掌した。
「チベット語の経じゃないけれど、サンスクリット語だし良いよね」
ゴパルはスヌワール族なので、元々は仏教徒だ。諸々の事情から、今はヒンズー教徒になっているのだが、カブレ町の親戚には仏教徒が居る。彼らから聞いて覚えた経……なのだが、ゴパルは普段唱えていないので、発音も語句も適当な面は否めない。
とりあえず経を唱え終えて、満足するゴパルであった。
「そういえば、カルパナさんも隠者さんと関わっているから、サンスクリット語ができるのだろうなあ。クシュ教授はネワール族だから、当然使えるだろうし。後で機会があったら、何か教えてもらおうっと」
ここで、ようやく絶景に目を向けるゴパルであった。目が点になっていく。
「うは……これは確かに景勝地だ」
仏塔は展望台の役割も果たしていて、アンナプルナ南峰に源を発する巨大な氷河が、眼前に広がっていた。
氷河の上の方は、真っ白な氷で覆われていて、無数の割れ目が青く見える。青空との対比が美しい。その氷河を包み込むようにアンナプルナ南峰がそびえ立っていて、その氷雪と岩肌の白黒世界が、強烈な印象をゴパルに与える。
上昇気流もかなり激しく、ゴパルが立っている仏塔周辺でも風が巻き上がっていた。
氷河の末端に目を下ろすと、落差十メートルにもなる氷の断崖になっていた。断崖から崩壊した大量の氷塊は、巨大な岩石混じりの土砂の中に埋もれている。
氷河は上も下も無数のヒビ割れで覆われていて、見るからに危険だ。実際に、氷河に足を踏み入れる行為は禁止となっている。
そして、その巨大な氷河のさらに奥には、真っ白で巨大な氷壁が屏風のように立ち塞がっていた。アンナプルナ主峰である。高さ四千メートルの屏風だ。
主峰からもいくつもの氷河が流れていて、南峰の氷河と合流していた。ただ、合流部分は氷では無く岩石混じりの大量の土砂だが。
ゴパルがアンナプルナ主峰を見上げながら、感嘆のため息をついた。
「豊穣の女神様……か。本当に優雅だな。真っ白いヒマラヤ襞もドレスのように見えるよ」
ヒマラヤ襞というのは、ヒマラヤ山脈の峰々に刻まれている、縦シワのような氷雪の浸食跡である。規則正しい間隔で襞が刻まれる事が多く、それが優美さを強調している。
しばらくの間、氷河と主峰に見とれていたゴパルだったが、上昇気流に体を煽られて我に返った。周辺の仏旗群がバタバタと激しくはためいていく。
「おっと。せっかくだから撮影してチャットで流そうかな」
氷河と主峰を何枚か撮影して、それをチャットアプリに貼りつけて送信する。と、すぐにクシュ教授から返信が届いた。
「仕事しろ……って。だから今日は、コンクリ養生の休日だと何度も知らせたでしょ」
続いて、博士課程のラメシュからも返信が届いた。
「すげー、すげー……って。語彙力が足らないぞ、ラメシュ君」
今度は意外にも、アルビンからだった。
「オヤツの準備ができました、か。確かに小腹がすいたな。そろそろ宿に戻るとするか」
最後にもう一度、仏塔に適当な経を唱えて、天気予報の礼を述べる。
その足で、岩だらけの坂道を下りはじめると、またスマホに返信が届いた。
「あれ、カルパナさんからだ。地元民はアンナプルナ内院へ、あまり行かないのですよ……か。地元民ならではだろうなあ」
歩きスマホしながらの下山は、さすがに危ないのでいったん立ち止まる。
他に何かチャットに書くネタがあるかどうか考えたが、再び強風が吹き上げてきたのでスマホをポケットに突っ込んだ。
「ここで転んでケガをしたら、笑いのネタにされてしまうからね。さっさと宿に戻ろうっと。オヤツは何かなー」




