隠者
隠者の身長が百八十センチあるので、今は、かなりの威厳が感じられてくる。その隠者の迫力が、不意に和らいだ。彫りの深い細目の奥で光っている、琥珀色の瞳が細められる。
雨のせいなのか、寺院に参拝する人は、他には数名だけになっていた。彼らに、少し待つようにと指示を出す隠者である。
「……この寺院に詣でる者は、地元の連中ばかりなのでな。観光客は目立つのだよ」
それにしては、ピンポイントでゴパルだと言い当てている。少し不思議に思うゴパルだが、隠者がそう言うのならばと納得した。改めて合掌して挨拶をする。寺院の前で待っている、他の参拝客にも、軽く頭を下げて合掌して謝った。こういう場合では、何も起きていなくても、まず謝った方が良い。
「ビンダバシニ寺院で、ここも詣でた方が良いと勧めてくれた方がおりまして。お目に障りましたら、ご容赦ください」
そして、改めて隠者に、低温蔵やKLについての簡単な説明を行った。
「説明が不十分な点もあるかと思いますが、気になる点がありましたら、遠慮なく仰ってください」
隠者の細目が、さらに細められた。口元も和らいでいく。
「気にせずとも構わぬよ。しかし、そうか。旅の前に詣でるとは感心、感心。バドラカーリー様の、ご加護を賜るように、ワシからも祈っておこう」
他の参拝者達も、ゴパルに微笑んでいる。ゴパルが傘を閉じようとしたが、それを制止する隠者と参拝者達だ。
ゴパルが傘を開き直して恐縮しながら、改めて寺院を見回した。先程のビンダバシニ寺院とは、建物の造りが異なる、白い壁に赤い屋根をした本殿である。二層の屋根を有しているのだが、かなり小さく、建物の中へは背をかがめて入る必要がある。
ゴパルが合掌をし直して、隠者に頭を下げた。
「ポカラでは雨でも、氷河の辺りでは雪でしょう。積もってしまいますと、身動きがとれなくなる恐れもあります。どうぞ、よろしくお願いいたします、隠者様」
「うむ」
隠者が鷹揚に応えた。
「して、スヌワール族のゴパル君。汝は、この寺院の由来は知っておるかね?」
素直に知らないと答えるゴパルである。隠者が口元を緩めた。
「正直でよろしい。この丘の上で、その昔、カーリー神の持つ神槍が、土地の者に授けられたという伝説があるのだよ。無論、その槍は現在では残っておらぬがね」
そのような宝具が残っていれば、今頃は英国や首都カトマンズの、博物館のガラスケースの中だろうなあ、と思うゴパルである。
「その槍は、人を殺すためのものではなく、邪を払うためのもの。故に、ここでは殺戮の女神としてではなく、温和な化身のバドラカーリー神として、お祀りしておるのだよ」
ゴパルが合掌したままで、深くうなずいた。
「邪というのは多分、マラリアといった疫病だったのでしょうね」
隠者が、満足そうな笑みを口元に浮かべた。
「汝が、聖なる木の寺院の街から持ち込んだ、KLという銘の槍が、人を追い払うのではなく、邪を追い払ってくれる事を期待しておるぞ」
聖なる木の寺院とは、首都カトマンズの地名の由来である。昔は、カトマンズ盆地内に複数の王国が建っていたので、『首都カトマンズ』という名称自体は新しい。ちなみに、これらの旧王国群を統治していたのは、ネワール族である。
ポカラとカトマンズの間に興った王国が、カトマンズへ侵攻して征服し、英国軍を撃退して、ネパール王国を建国した。その後、民主化されて王政が廃止され、共和国になっている。




