バドラカーリー寺院
この寺院は、ポカラ市の北東にある丘の上に建っていて、やはり周辺を民家で囲まれていた。寺院の北にはチベット仏教寺院があり、東にはイスラム教のモスクが建つ。そのため、この辺りの住民も、仏教徒やイスラム教徒が多い。商売の神であるガネシュ神を祀る大きな寺院も隣にある。
ここも丘の上に建っているので、階段を上って参拝する形になる。先のビンダバシニ寺院ほどではないが、人が多い。しかし、あまり有名ではない寺院なのか、欧米人の観光客の姿は見当たらなかった。
参拝の供物と花を、再び買い揃えて、階段を上るゴパルである。
ドゥルガ神の化身の一つである、殺戮の女神カーリー神を祀っているのだが、その中でも穏やかな化身といわれるバドラカーリー神を祀っている寺院だ……と、参拝者に教えてもらった。
「アンナプルナで遭難しないように、お祈りをしておこうかな」
ここは、それほど込み合っていなかったので、司祭に喜捨を渡して、神への祈りを取り持ってもらう……はずであったが、司祭の姿が見当たらなかった。代わりにサフラン色の道衣を着た者が代行している。サドゥと呼ばれる、ヒンズー教の聖者だ。
ゴパルの前で順番を待っていた参拝者が、彼を隠者様と呼んでいたので、それに従う事にする。聖者の中には、世俗から離れている者が多い。隠者と呼ばれる事も普通にある。
しばらくして順番が来た。神殿の中は、かなり狭かった。二人も入ると、満席になるほどだ。その隠者に喜捨を手渡すゴパルである。身長はゴパルよりも高く、百八十センチくらいだろうか。
「司祭様は、この雨で体調を崩されたのでしょうか? 隠者様」
隠者がゴパルから受け取った喜捨の紙幣を、神前に全て捧げてうなずいた。
「ハリオーム。雨に打たれて風邪をひいたようでな。ワシが代行しておる」
オームとは、万物の根源の音という意味があるのだが、ここでは単に、挨拶言葉として使っているようである。
かなり渋い声に、内心で驚いたゴパルであったが、素直に納得する。そのままヒンズー教の作法に従って、神への祈りを始めた。天井が低いので、頭をぶつけないように気をつける。
隠者も、神を讃えるヴェーダと呼ばれる賛歌を、小声で詠唱し始める。サンスクリット語なので、ゴパルには一部しか理解できないが。普通は、手持ち鐘を鳴らしながら詠唱するのだが、彼は使用していない。彼はゴパルよりも背が高いので、座っての詠唱だ。
(そういえば、ビンダバシニ寺院の司祭達は、こんな詠唱をしていなかったな。ま、ネパール語でもヒンズー語でもないし、仕方がないか)
ちょっと得をしたような気分になるゴパルである。
そう思って、隠者の姿を改めて見ると、かなり威厳というか徳が感じられるから不思議だ。
彼は坊主頭で、ごく短い髪の大半を白髪が占めている。眉はかなり薄く、その下の琥珀色をした瞳が、確固たる信念と安らぎを伝えている。二重まぶたで、切れ長の目は彫りが深く、インド系の顔立ちだ。
額には、白線と黄色い線で描かれた、角が丸い四角形が描かれていて、その中央に横線が二本走っている。
道衣は清潔で汚れも無く、サフラン色だ。ターバン状の同じ色の頭巾に、薄赤色のストールを肩にかけている。司祭とはかなり異なる装いだ。そして、ヒゲを綺麗に剃っていた。
ゴパルの礼拝が終わり、次の人の順番になった。どうやら、雨期明けから本格化する、結婚式の予約状況を聞きに来たようだ。
ゴパルが隠者に合掌して礼をし、傘を開いて、ホテルへ帰ろうとすると、その隠者が呼び止めた。
「汝は、バクタプール大学のゴパル・スヌワールかね? バッタライ家のカルパナ嬢が、ワシに相談してきたのだよ」
いきなり本名で呼び止められたので、再び驚くゴパルであった。目を点にして、口を半開きにしている。
「な……何用でしょうか? 隠者様。以前に、お会いいたしましたか?」