準備
ゴパルがホテルの部屋に届けられていた、KLの箱数を思い起こした。十リットルの容器が三個だった。
今回、目的地のアンナプルナ氷河では、低温蔵建設の簡易測量が主な目的だ。KLは、建設現場で紹介をする程度の量を持っていけば足りるだろう。であれば、持っていく量は、合計で一リットルもあれば十分だ。
サラサラっと、紙に具体的な数字を記していく。
「では、今回は、KLの培養方法を学んでもらいましょうか。二十倍に増やします。種菌となるKLが、それぞれ十リットル弱使えるので、二百リットルの密閉タンクを一つ用意してください。その他は、後日改めて学べば良いと思いますよ」
カルパナと協会長が、再び顔を見合わせた。遠慮気味に協会長がゴパルに聞く。
「いきなり私達に、KLの培養方法を教えても構わないのですか?」
ゴパルが垂れ目を細めて微笑んだ。
「はい、構いませんよ。KLは多数の微生物の混合液ですので、培養もこの一回しかできません。それ以上、繰り返し培養すると、菌のバランスが崩れて、効果が低下して使えなくなります」
へえー……と、反応している二人に、ゴパルが話を続けた。
「ポカラは亜熱帯ですが、冬季はどうしても水温が下がってしまいますよね。年中同じ水温で培養した方が、計画的に使えます。ですので、水温を三十度に保つ事ができる、温度センサーが付いた電熱ヒーターを、この二百リットルタンクの中に設置しておいてください」
カルパナがうなずいた。
「分かりました。私の店では、種子の芽出しや、種苗の管理で、温水を使っています。それをタンクの中に取り付ければ良いですね。タンクも用意します」
ゴパルが感心した表情になった。
「さすがですね。水ですが、塩素を抜いておいてください。殺菌されてしまいますので」
まあ、ネパールの水道水には、塩素は大して含まれていないのだが。一晩ほど放置して、空気中に放出させるようにすれば、塩素が抜ける。
それでも塩素臭がして、塩素が残っている場合には、エアポンプを入れて曝気する。大量の空気を送り込んで、塩素を抜けば良い。
そして、少しの間考えてから、協会長に顔を向けた。
「ラビン協会長さん。レストランやホテルの厨房で、米の洗い水が大量に手に入りますか?」
協会長が首をかしげて、数秒間考えた。
「……そうですね。ホテル協会に加盟している数だけでも三百軒あります。毎日、数十トンは出ていると思いますよ。水道水が病原菌で汚染されていますので、浄水器で濾過した水を、洗い水に使っています。塩素も除去されているはずですよ」
ゴパルがニッコリと微笑んだ。
「それは好都合ですね。では、KLを培養する際に使う水は、全て、米の洗い水にしましょう。この洗い水は、そのまま排水すると、河川の汚染源になります。それだけ栄養分が豊富ですよ」
再び感心している協会長とカルパナに、ゴパルが聞いた。口調が次第に軽くなってきている。
「それでですね。KL培養の餌として、糖蜜を使うのですが、この品質基準を書いておきますね」
ゴパルが、紙にスラスラと数値を書き込んでいく。同時に説明も始めた。
「糖蜜は、比重が一・四以上。糖度としては、ブリックス値で七十以上のものを推奨します」
ここでゴパルの口調が、さらに軽いものになった。
「……ですが、そのような高品質の糖蜜は、なかなか見つけられないと思います。薄められている場合が多いので。そんな糖蜜では、雑菌が繁殖しています。ですので、網等でゴミを濾過して取り除いてから、二回、時間をおいて煮沸してください。そうやって糖蜜を、ある程度まで殺菌します」
糖蜜とは、サトウキビを絞った汁から白砂糖を作る際に出る排液だ。サトウキビの繊維や、土、それに虫やトカゲ等のゴミが混じっている。
糖度が低いと、これらに含まれていた雑菌が繁殖してしまい、臭くて酸っぱい糖蜜になってしまう。
雑菌の中には、納豆菌の仲間の枯草菌等があって、耐熱性の胞子を有している。なので、一回だけ煮沸しても、この耐熱胞子が生き残ってしまうのだ。間をおいてから、再度煮沸する事で、この耐熱胞子から発芽した菌を殺菌する事が可能になる。
「煮沸する際の注意点ですが、糖蜜は粘性が高いので、いきなり爆発的に大量の泡が発生します。火傷をしないように注意してくださいね」
ゴパルの注意に、カルパナがクスリと笑った。
「大丈夫だと思いますよ。糖蜜は、畜産の餌でよく使います。品質も比較的安定していますから、それを使ってみましょう。酪農場に友人が居ますので、彼女から分けてもらいますよ」
協会長も、一重まぶたの黒い瞳を細めた。
「今後、糖蜜を大量に必要とする場合には、ブトワルの製糖工場から直接買い取りますよ。水で薄めるような仲買い業者を、挟まなければ済む問題ですので、対処は容易です。ホテル協会も大量の砂糖を使いますからね。場合によっては、小さな製糖工場を買収しても構いませんよ」
ブトワルは、ポカラから南へ、標高三千メートル級のマハーバーラット山脈を越えた先にある街だ。テライ平原にあり、インドに接している。ちなみに、仏教の釈尊が誕生した場所でもあるらしいので、世界中の様々な仏教の寺院が建てられている。
今度はゴパルが、垂れ目をパチパチ瞬かせて驚いた。
「す、凄いですね。さすがホテル協会だ」
他に必要なペーハー測定器や、ビニールシートをメモするカルパナ。ゴパルと協会長に軽く会釈をする。
「では、手配するように再確認の電話をしますね。ええと、まずはサビちゃんからかな……」
スマホをレインスーツの中から取り出して、電話をかけ始めた。




