朝の予定
起床してから、ようやく一息ついたゴパルが、これからの予定をカルパナから聞く。それによると、このまま、レイクサイドの外れにある、ロープウェイの駅まで車で行くという事だった。
ロープウェイでサランコットの丘の頂上まで登り、現地の民宿街の代表と、素材調達について話し合うという予定だ。
カルパナが、申し訳無さそうな表情になった。
「今でも野菜とかの素材が不足していて、ピザ屋とサビちゃんのレストラン以外では、出荷量が不足しているのです……サランコットの民宿街に、提供できる野菜の量も、少ないままですね」
レカは反対に上機嫌だ。
「うちは、販路が増えたんで嬉しいわよー。牛乳とか水牛乳とかって、日持ちがしないからねー。あ、でも、もう少し時期が早かったら、山羊乳も出せたんだけどなー。もうシーズン終了なのよねー、残念」
山羊は一年中、乳を出す事は無い。春から夏にかけてだけだ。以降は、山羊チーズだけになる。
サビーナは、意外に冷静な口調だった。
「ま、今回は、集団食中毒をやらかしたから、根本的な公衆衛生の指導が必要になるわね。適当に調理する料理人ばかりだから、喝を入れないと」
三者三様の話を、ゴパルが興味深く聞く。研究者なので、このような話は新鮮だったりするのだ。
いつもは、どこの森のキノコやカビがどうの、花や果物に付いている酵母菌や乳酸菌がどうの、という何とも浮世離れした会話しかしていない。
研究者の服装も、体を包む事ができればそれで十分だという考えの者が多いので、普通に見苦しい。ゴパルがヨレヨレではあるが、マトモな半袖シャツを着ているのは、実は大した事なのだ。
なので今回も、カルパナ達三人の服装に、今になって気がついた様子だった。
時々、鋭い視線をゴパルに放っているサビーナの服装は、濃紺の生地に銀糸の刺繍が施されたサルワールカミーズで、ズボンもゆったりとした裁断だ。
ただ、足首でキュッと締めているので、活動的に見える。足元はサンダルで、肩には青墨色のストールが巻かれてある。そのストールの先が、車窓からの風に乗って揺れた。
「ゴパル君……あたしの服のセンスに感心しているのは良いけれどさ。そのヨレヨレなシャツは、いい加減に何とかしなさいよね」
素直に反省するゴパルである。
「はい、サビーナさん」
ゴパルの横で運転しているラジェシュが、一際無駄に動いて、太めで長い眉を愉快そうに動かした。ハンドルはしっかりと握っているので、車が揺れたりはしていないが。
「よく働く有能な男は、見苦しいもんだぜ。一度に一つの事しかできない男って多いからな。服に気を遣う奴ほど、集中力が欠けて、仕事ができないもんだ」
道端には、朝から水牛や牛、それに山羊の群れが草を食んでいたのだが、それらを華麗に回避して、ポカラの街中を走っていく。
ヒンズー教徒は朝の礼拝をするので、この夜明け前の時間でも通りには人影が多く見える。
道端の祠や、小さな寺院、それにそれぞれの家の庭や、屋上では、バターランプを灯した盆に、朝の供物を乗せた人達が居て、チリンチリンと鈴を鳴らして礼拝をしている。
彼らも華麗に回避して、ピックアップトラックで走り抜けていくラジェシュだ。
ゴパルが上空を見上げると、雲がかなり少なくなっていて、星空が見えた。アンナプルナ連峰は、サランコットの丘が邪魔になって見えない。
「ポカラに来て、初めて晴れたかもしれないなあ」
カルパナが思わず吹き出して、うつむいて肩を震わせた。何かの笑いのツボに入ってしまったようだ。
その彼女の服装は、今回も実用重視だった。サビーナと同じサルワールカミーズ姿なのだが、こちらは野良着版だ。少し日焼けして色が抜けたオレンジ色の生地に、黄色の縞模様が縦に走っている。彼女もゆっらり裁断のズボンで、サビーナと同じく足首がキュッと締まったものだ。そして足元は当然のようにサンダルである。
今は、腰まで伸びている黒髪を揺らし、肩を細かく震わせて笑いを堪えている。
早くもカルパナの異常を察知したレカが、カルパナの脇腹を指で小突き始めた。途端にカルパナが変な悲鳴を上げて、レカに反撃を始めた。サビーナも加わって、あっという間に後部座席が大騒ぎになる。
運転席のラジェシュが、ゴパルに苦笑した。
「すいませんね、ゴパル先生。こいつら集まると、いつもこうなるんですよ。こんな事やってるから、婚期逃した秘密結社とか、行き遅れ三人衆とか、親や親戚から言われるんですがね」
ネパールやインドの都市部では、今の女性は二十代で結婚する事が多い。そのため、独身であっても特に問題は無い。
しかし、ポカラのような地方都市では、農村が隣接しているので、十代後半で結婚する者が多数派だ。なので、二十代に至ったカルパナ達は、親や親戚にとって頭痛の種になりつつある。
ゴパルも独身なので、耳が痛いようだ。とりあえず、レカの服装の話題に切り替えた。
「レカさんの服装ですが、今日は、ストールにきちんとアイロンがかけられていますね」
さすが愚鈍なゴパル山羊である。しかし、ラジェシュには大受けした。危うくハンドルを切り損なって、水牛に衝突しそうになったが、何とか回避する。
「そ、そうですか。そりゃあ良かった。サビーナさんから、いつもいつも服装のダメ出しをされているんですよ。良かったなあ、レカ。見栄えがするってよ!」
ゴパルはそこまで言っていないのだが、断言するラジェシュである。
次の瞬間、レカの右足蹴りが、彼の左側頭部にヒットした。しかし、余裕で耐えるラジェシュの首である。ハンドルも全くぶれない。後部座席で、ほとんど猿のようにキーキー騒いでいるレカに、大人の余裕の笑みを投げかけた。
「ネットゲームの歴戦の戦士にしては、攻撃力が足りていないな。精進しろよ」
さらに意味不明な言葉を上げて、レカが暴れ始めたが、それをカルパナが抱きしめて抑えつけた。
「レ、レカちゃん、今は運転中だからっ。攻撃は後でお願い」
真っ赤な顔になって、なおも、もがくレカであったが、あっという間に体力が尽きてしまったようだ。脱力して後部座席に仰向けに倒れ、そのまま動かなくなる。そんなレカを、バックミラー越しに愉快そうに眺めるラジェシュだ。
「こんな妹ですけど、見捨てないでくださいね、ゴパル先生。見ていて飽きませんから」
サビーナが腕組みをしてドヤ顔で口元を緩めた。彼女も先程まで一緒に騒いでいたので、汗だくになっている。息も少し上がっているようだ。
「安心しなさい。この『あたし』が友達なのよ。レカっちの味覚は本物だから、リテパニ酪農の品質管理は万全ね。レカっちが怠けない限りはね」
改めてレカの服装を見ると、若草色の生地に黒の模様が施されている。襟や裾には、黒と黄色の幾何学模様が印刷されていて、それはダブダブなズボンの裾にも付いていた。
濃い緑色のストールには、パリッとアイロンがかけられていて、それが、レカとカルパナの下敷きになっていた。サンダルは花柄の可愛いものだ。今のところは、ぐったりしていて、メガネも座席に落ちてしまっているが。
そうこうする内に、ピックアップトラックがロープウェイの駅に到着した。夜明け前なのだが、既に運行を開始している。
車を駅の入り口前に停めたラジェシュが、後部座席で疲れてぐったりしている三人娘に告げた。さすがに少し呆れている。
「おい。着いたぞ。日の出を見るんだろ」




