飛んだ後で
「……あ、う。あれ? 朝か。ん、ここはどこだ?」
ゴパルがベッドからゆっくりと起き上がった。見知らぬ部屋だ。看護婦を呼ぶボタンがベッドの上にある。部屋自体も消毒液臭い。とりあえずボタンを押して、ベッドの上から周囲を見回した。
「どう見ても、これは病室だよね。何が起きたんだ? あいたたた、目と鼻と喉が痛いぞ」
そこへ、白衣姿のアバヤ医師が病室に入って来た。白衣姿になると、太鼓腹がよく似合う。その彼が、ニヤニヤしながらも呆れている。
「お目覚めかな、ゴパル君。記憶の混濁が少し見られるようだな。ま、そのうち治るから安心せい」
そして、ゴパルに経緯を話してくれた。パメの家で、うっかりと唐辛子スプレーを、顔に少量散布してしまったという事だった。
アバヤ医師が愉快そうに、くっくっくと低く笑う。ほとんどつながっている、細い一本眉が、笑いに同調してシーソーのような動きをとった。
「で、ワシの病院へ緊急搬送された、という訳だな。しかし、少量で良かったな、ゴパル君。危うく失明して、味も香りも分からなくなる所だったぞ。尋常じゃない粘膜や結膜の炎症だったわい」
次第に、記憶がよみがえってきた。
「目の痛みと、鼻の中や喉の火傷感は、そういう事でしたか。ポカラ工業大学のスルヤ教授に、一言苦情を言っておいてください。インド象に使う兵器を、人に使うのはいかがなものかと」
アバヤ医師がニンマリと笑って、太鼓腹を張った。一本眉がさらに上機嫌に、シーソー運動をしている。
「承った。しかと、工学バカのスルヤに伝えておこう。奴の試作品には、ワシも何度か痛い目に遭っておるのでな。さて、ゴパル君には、もう一つ告知事項がある。聞くかね?」
くっくっく笑いが続く、アバヤ医師の二重まぶたの褐色の瞳が、キラキラしている。嫌な予感しかしないのだが、聞くしか選択肢は無いようだ。ゴパルがジト目になりながら、うなずいた。
「聞きます」
「ゴパル君の帰りの飛行便だが、医者のワシの判断で明日に延期した。実際、もう夕方だ。緊急搬送されてから、もう十九時間も経過しておる。今日の首都行き飛行便には間に合わぬよ」
十九時間と言われて衝撃を受けているゴパルに、アバヤ医師が彼のスマホ画面を向ける。そこには、クシュ教授が呆れた表情で映っていて、ゴパルを見据えていた。テレビ電話を、アバヤ医師がつないでくれたようである。
「ゴパル助手、とりあえず回復おめでとう。後遺症も無さそうで良かった。君の荷物は、既に届いたよ。菌の採集ご苦労さま。野菜の固形ダシは冷蔵庫の中に入れたから、これも安心したまえ」
そして、大きくため息をついた。
「今回の入院治療費は、労災の適用外だ。だけど、それでは可哀そうだから、僕の財布から支払っておいたよ。全額自腹では、君の財布が厳しいだろうからね」
確かに、今、ゴパルの財布には小銭しか残っていなかった。この辺りの行動予測の正確さは、さすがのクシュ教授である。
頭をかきながら感謝するゴパルに、ジト目のままのクシュ教授が短く答えた。
「さっさと帰ってきなさい、では、残りの説教は研究室で」
アバヤ医師がテレビ電話を切り、別の相手につないだ。カルパナとナビンの泣き顔が、分割画面いっぱいに映し出される。
「ゴパル先生! 気がついたのですねっ。今すぐにそちらへ向かいます!」
「ゴパル先生、うちの姉が大変申し訳ない事をしまして、本当に何と申し上げてよいやら……」
二人の泣き顔に面食らっているゴパルに代わり、アバヤ医師が応答した。
「バカ者。まだ回復したばかりだ。面会は許さぬよ。明日の朝の飛行機に乗る時に、病院へ来い。以上だ、バカ者」
そう言い放って、一方的に通話を切るアバヤ医師であった。まだ、キョトンとしているゴパルにも、褐色の瞳を向ける。今は、実に切れ者の医者らしい風貌に見える。
「ゴパル君も、今晩は安静にしておれ。まだ少し鼻腔に炎症が残っておるのでな。おう、トイレとシャワーは好きに使って構わんぞ。着替えも用意してある。料金は、ゴパル君の上官が支払ってくれるから、心配するな」




