肥料
小麦は肥料を多く必要とする作物だ。しかも、連作障害が出るので、定期的に農地を別の場所に変えないといけない。その分だけ、多くの農地を、小麦栽培に適した土壌養分値にする必要がある。
「化学肥料は、残念ながらネパール国内では生産されていません。全てインド等から輸入しています」
ネパール政府や農業公社が輸入する化学肥料の量は、年ごとに決まっている。追加輸入をする場合もあるのだが、それには、インドや中国との間で、煩雑な手続きを必要とする。
民間会社による化学肥料の輸入も行われているが、その場合には、かなり割高な価格設定にならざるを得ない。花卉のような卸単価の高い作物でないと、コスト高で赤字になってしまう。
輸入される小麦粉は、人道的支援の名の下に、安い価格設定になっている。そのため、農家としては、高い卸価格で小麦を売る事ができない状況だ。つまり、儲けが出にくい。
そして、ほとんどの場合、輸入した化学肥料は、国内の需要に満たない量に留まる。必然的に、ネパール国内では、化学肥料の割り当て争奪戦が起こる。肥料を多く使う小麦栽培では、不利な条件ばかりになるのは避けようが無い。最優先の作物は米なので、小麦は後回しになりがちだ。
「ホテル協会としても、ポカラの議員や有力政治家に働きかけているのですが……それでも化学肥料が不足しています」
協会長の出自であるタカリ族は、チベット交易で長い間生計を立ててきた民族だ。商業ギルドとも呼べるような、結社もある。独自の金融システムも持っていて、銀行を介さない融資や手形決済ができる。そのタカリ族が弱音を吐くほどなので、相当に厳しいのだろう。
ゴパルが組んでいた両手を解いて、協会長に垂れ目の瞳で見つめた。
「その打開のための、有機肥料の製造ですね。ですが、小麦栽培を有機肥料で行うとなると、膨大な量が必要になりますよ?」
例えば、窒素成分で比較してみると、一番安い尿素肥料で、重量比で四十%以上。それに対して有機肥料では、高くても三%程度だ。普通の牛糞堆肥では一%しかない。
窒素肥料は、小麦の茎葉を育てるために必要不可欠な肥料である。足らないと、茎葉が黄色くなって、酷い場合には枯れてしまう。まあ、ネパールでは、尿素肥料の窒素含有量も表示通りでは無く、三十%程度に薄まっている場合もあるのだが。
協会長の、一重まぶたの奥にある黒い瞳がキラリと光った。
「有機肥料の材料はあります。何しろ、ポカラの人口は三十万人に達しますからね。養豚団地も新たに造成されました。問題は、有機肥料にするまでに時間がかかりすぎるという点です」
通常では、牛糞堆肥や、豚糞堆肥といった厩肥が使用できるようになるまでに、半年から一年間かかるものだ。生ゴミ堆肥も同様である。
加えて、ヒンズー教徒が多いネパールでは、人糞や毛髪、それに食べ残しは、不浄な物とされている。
ゴパルもヒンズー教徒なので、その点を尋ねてみた。
「ズト対策は、どうなのでしょうか?」
協会長が、真剣な表情のままで口元を緩めた。彼はチベット仏教徒だ。名前がインドっぽいのは、かつての王政時代に進められた、ヒンズー教への改宗指導の名残だろう。
「直接の接触は厳禁ですが、別物に変わっていれば何とか、うやむやにできます。人糞や毛髪は、汚水処理された後の汚泥であれば、誤魔化せます。食べ残しを含む生ゴミも、見た目が別物に変われば問題ありません」
実際田舎では、食べ残しは、庭飼いの鶏の餌になっている。人糞尿も、屋外トイレの周囲に畑を作っている集落が多い。
思わず、頭をかくゴパルであった。クシュ教授の思惑通りに話が進んでいるとしか思えない。
「……事情は、おおよそ理解できました。私が、アンナプルナ氷河へ向かうのは、明日の朝からです。ポカラへ戻ってから、具体的なKLの使い方を講習しましょうか?」
協会長が、ニッコリと微笑んだ。
「はい」
同時にオレンジ色のバイクが止まり、レインスーツの上下を着た女性が、店内に入って来た。エンジン音から百二十五CCだろう。カスタマイズされているのか、座席後部に大きな荷台がある。
ヘルメットを脇に抱えて、少しの間キョロキョロしていたが、すぐに協会長を見つけて、合掌して挨拶した。
協会長が微笑みながら、彼女を手招きして、ゴパルに紹介する。
「講習は、彼女に対してお願いします。レイクサイド近郊で農業指導をしている、カルパナさんです」




