ジヌー温泉へ
会計を済ませて民宿の外に出ると、雨が上がっていた。雲も薄くなってきていて、空が少し明るくなってきている。
リュックサックを背負い、頭のフードを被り直す。そして、ダウンジャケットと分厚い手袋、それに寝袋等を大きな袋に入れて、ニッキに手渡した。
「早速で、申し訳ありませんが、これらの物を年間予約した部屋に置いてください。次に来る時に、また使いますので」
ニッキが袋の中身を確認して、うなずいた。
「了解っす。洗っておきますね。毎回、コレを担いでポカラから来るのは大変でしょ」
ゴパルが改めてニッキに礼を述べて、上空の雲を見上げた。
「数日間、私のアンナプルナ入りがずれていれば、良かったかもしれないなあ」
ニッキがニヤニヤ笑っている。太く短い眉が上がり。刈り上げた黒髪の先が、谷からの上昇気流に揺れる。
「そうっすね。道は、教えた通りすよ。転ばないようにチャイ、お気をつけて」
ニッキに挨拶をして、セヌワへ向かう道を下っていくゴパルだ。さすがに、地元民が使う道だけあり、悪路である。
測量ポール杖を使って、泥道に突き立て、慎重に坂を降りていく。竹と広葉樹の森の中を進むので、獣道のような印象だ。
「それでも、竹の根や、木の根が張っているから、慣れれば歩きやすいな」
所々に、放牧の山羊や雌牛が、草を食んでいるのが見える。足先が赤いのは吸血ヒルに咬まれた傷だ。
道には、草木や竹の枝葉が容赦なく覆い被さり、頭上の木々の枝も、たびたび頭や肩に当たる。そのような道なので、吸血ヒルまみれになってしまった。
足元はもう放置する事に決めて、手鏡で顔と首回りだけを確認しながら、藪の中を進む。
やはり数匹が顔と首筋に取りついていたので、急いで引き剥がした。咬みつく前であれば、この処置で事足りる。
足の保護シートにも、何回も枝が当たり、シュッシュと鋭い音がする。
「保護シートなんだけれど、これまで何度も切れて破けたからなあ……今回は破けないで欲しいものだよ」
独り言をつぶやきながら、坂を下っていくと、不意に林の外に出た。段々畑が広がっている。
畑の上の方を見上げると、集落が見えた。あれがセヌワなのだろう。
「てっきり、セヌワの中へ出るかと思ったけれど……やはり迷っていたか」
道理で、獣道みたいな道になっていた訳だ。セヌワのかなり下に出てしまった。
「村で休憩しようかと思っていたんだけど、また坂を上るのは嫌だな。このまま段々畑の畦道を下って、ジヌー温泉まで一気に行くか」
段々畑には、粟やシコクビエ、それにジャガイモが育っていた。急斜面を開墾した畑なので、幅も面積も小さい。
しかも、水田にできない気候なので、畑が谷の方へ向かって少し傾斜している。こうする事で、畑の排水を促しているのだ。ただ、傾斜をつけ過ぎると、表土が雨水で流れ去ってしまうが。
作物を踏まないように気をつけながら、畦道を下っていくゴパルであった。
カトマンズ盆地や、その周辺の丘陵地では、棚田の畦道に大豆等を植えている事が多い。しかし、ここでは、そうしていなかった。山羊が食べてしまうためだろうか。
段々畑が階段状に重なる斜面を、ひたすらに降りていく。セヌワから遠くなるに連れて、耕作放棄地が増えてきた。畑が、雑草や灌木に覆われ始め、石垣が崩壊している場所が目立ってくる。
そして、ついには、ただの荒れ地に変わってしまった。
岩混じりの急斜面には獣道が、ひし形状の網の目のようになって見えている。山羊や牛が、草を求めて歩き回って出来たものだ。
生えているのは、芝だけになり、毒草やシダが点々とあるだけの殺風景な景色になる。
その獣道が刻まれた斜面も、雨期の大雨で土砂崩れを起こしていた。
あちらこちらで、ガッサリと斜面が崩壊している。崩落した土砂の先は、モディ川に流れ込んでいて、その激流に押し流されてしまっていた。
「押し流されて良かった。川をせき止めてしまったら、ダムになってしまう。鉄砲水が起きるところだよ」
ゴパルが歩いている泥道にも、亀裂が走っている場所がある。既に道が崩れ始めていて、段差が生じている所もあった。そんな亀裂や段差を、ヒョイと飛び越えるゴパルだ。
「確かに、こんな道では、観光客には向かないなあ」
そのような場所は、さすがに家畜の放牧も行われていない。代わりに、ネパールハンノキや、有毒のシャクナゲ等が茂り、モディ川沿いに森を形づくっている。結構、樹高が高く、枝も切られていない樹形のものが多い。
その森の中へ、泥道が続いているので、ゴパルも斜面を下っていく。やはりまた、吸血ヒルが木の枝から頭の上に落ちてくるので、それらを払い落として進む。
不意に森が切れて、民宿街に出た。
「お、ここがジヌー温泉かな」




