ヒンクの洞窟
雪は下山するにつれて溶けて、氷盤みたいになっていた。ツルツルと、滑りやすくなり始めていたので、今度はできるだけ雪や、氷が無い場所を選んで歩くようにする。実際、何名かの欧米人観光客が、見事に滑って転んで毒づいている。
そんな彼らを追い抜きながら、それでも慎重に歩みを進める。
雪や氷が、歩行の支障にならない程度になったのは、デオラリを過ぎて、ヒンクに至った所だった。巨大な岩が谷にせり出して、洞窟状の窪地ができている場所だ。
行きでは、ここの茶屋でチヤ休憩をしている。しかし当時は、夕闇が近づいていたので、景色がよく見えていなかった。
帰り道に、改めて見上げると、本当に巨大な岩が西の絶壁から突き出ていて、そのまま道の上に覆いかぶさっている。岩の高さは、優に十五メートルはあるだろうか。
こんな巨岩の下の茶屋で、チヤを飲んでいたのか……と呆然とするゴパルであった。
雪解け水も、かなり増量していた。ヒンクの周囲の絶壁からは、無数の滝や沢が、轟音を立てて流れ落ちている。
チヤを頼んで、イスに座る。リュックサックを肩から下ろして、着替える事にした。ここから下は、急な下り坂が続く。気温も急激に上がってくるはずだ。
ダウンジャケットを脱いで、リュックサックの外側に引っかけて吊るし、レインウェアを着る。靴下や手袋も、薄手のものに替えた。
茶店のオヤジが、ゴパルにチヤを渡した。
「内院じゃ、嵐だったのら? 一日荒れてたそうだな。おかげで、ここヒンクでも客が少なくてら。天気が、回復して良かったぼ」
チベット語訛りのネパール語で話しかけてくるオヤジだ。ゴパルも穏やかな表情で答える。
「丸一日、吹雪でしたよ。チベット僧の天気予報に助けられました。仕事も無事に終わりましたよ」
オヤジがニッコリと笑った。
「そいつは良かったら。チソ飲むか?」
今回は炭酸飲料を勧めてくるのか、と感心するゴパルである。しかし、今回も断る事にした。
「すいません。今日じゅうに、ジヌー温泉まで下る予定なので」
オヤジが、残念そうな顔になった。
「むう。急ぎ旅か。そりゃあ、チソは体に良くないら。次回来た時に飲めば良いら」
ゴパルがチヤの代金をオヤジに手渡しながら、うなずいた。
「そうですね。次回は、ゆっくり上る事にしますよ」




