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アンナプルナ小鳩  作者: あかあかや
氷河には氷があるよね編
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西のヒマラヤ山脈

 その日は、チヤ休憩が終わったので、そのまま通常の研究業務に戻ったのであったが、クシュ教授は本気だったようだ。翌日、朝一番で関係各所への電子文書を、彼のパソコンを使って、矢継ぎ早に作成して送りつけていった。事務作業の際にはメガネをかけているので、かなり知的に見える。

 ……のであるが、キーボードに中指だけを使って、超高速タイピングしていく姿は、メガネ効果を半減させるには十分だ。

 ダダダ、ガガガ、バババと工事現場のような音が、研究室内にこだまする。節くれだった中指が、容赦なくキーボードを打ちのめしていて、机まで振動で揺れている。おかげで、よくキーボードが破壊され、ほとんど周期的に、新しい中古のキーボードを用意する事になっていた。

(あのキーボードも、余命一ヶ月というところだろうなあ……)

 激しい打ち込み音を聞きながら、ゴパルが自身のパソコンを使っている。彼の場合は、キーボードに優しい音だ。今は、シャーレ培地で培養した酵母菌や、麹菌の品定めの結果を、パソコンのデータベースソフトに入力している。


 品定めといっても、ワインや日本酒、それにチーズ等で使う菌を、目視で調べている。もちろん、顕微鏡でも見るのだが、全体像や菌の勢いを見定めるには、こうした目視による方が確実性があるのだ。

 例えば、日本酒で用いる麹菌では、菌糸の伸び具合も重要な選定基準になる。良い伸び具合の部分を、シャーレ底面に直接マジックペンで円を描いていく。後で、描いた部位を取り出して、改めて培養するのである。こうする事で、日本酒の品質が安定する。毎年違った風味の日本酒になっては、研究価値が無いためだ。同様な事が、ワインや発泡酒、それに熟成チーズで使う発酵菌でもいえる。

 当然のように、ゴパルの手元には、湯気の立つチヤが入った、曇りガラスのコップが置かれているのは言うまでもない。


 研究室は、早くも節電態勢に移行していた。

 まず最初にスイッチが切られたのは、冷房機器だった。これも冷蔵庫や冷凍庫と同じく、電力を大きく消費するためだ。そのため、室温が上がって、皆の服装は半袖半ズボンに変わっていた。

 実験を行う際には、その服装では非常にまずいので、腕付きの巨大エプロンを装着している。今は、博士課程のラメシュが、薬品を調製していた。

 隣では、他の二人の博士課程が、微生物の培養に使う各種の培地を作っている。こちらは、キノコの破片を使って組織培養するための培地である。

 クシュ教授は、太鼓腹の体型もあって暑がりなので、半袖シャツに、ルンギと呼ばれる巻きスカート姿である。彼は山間地に出自があるネワール族なのだが、バングラデシュでの研究生活中に気に入ったそうで、今では好んで着ている。着慣れているせいもあり、もはや、不自然さは全く見られない。

 色黒の腕も毛深くて、見た目もインド人のようだ。時折、猛打タイピングの合間に腕をこすって、指の筋を伸ばしている。彼は腕時計をつけない主義の人なので、タイピングで腕時計を気遣う必要は無い。


 ふと何か思いついたようで、キラキラした黒い瞳をゴパルに向けた。

「アンナプルナ氷河に作る小屋だけどね、名前を思いついたよ。『ゴパルの家』と命名しようと思うが、どうかね?」

「やめてください」

 言下に拒否するゴパルであった。こういう場合には、代替案を提示する事になっている。目視作業を継続しながら、パソコンでネット検索をして提示した。

「低温蔵で良いと思いますよ、クシュ教授。分かりやすさを優先すべきかと」

 ガガガ! とキーボードを叩きのめしたクシュ教授が、後頭部に残る髪をクシャクシャとかいた。

「ま、それでいいか。じゃ、『低温蔵』で命名するとしよう」

 数秒間ほど、ゴパルが調べていたミニ水力発電機や、太陽光発電パネルの情報を見ていたが、あっさりと画面から消した。論外らしい。その勢いで、再びゴパルに大きな瞳を向ける。

「それで、ポカラの宿は予約できたのかね?」

 ゴパルが自身のパソコンの画面をクシュ教授に見せた。そこには、ポカラのホテル協会のポータルサイトが表示されている。

「はい、クシュ教授。とりあえず、観光旅行という事で現地入りできそうですよ」

 どれどれ……と、クシュ教授が、ラメシュ達三人の博士課程と一緒に来て、その液晶画面に表示されたサイトを見た。液晶画面のサイズが十四インチしかないので、顔を突き合わせるような態勢になっているが。

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