神と名乗る男 四
「なんだ。可愛い顔じゃないか」
クロノスの手が、ナシェルの顔についた髪を優しくはらう。
「ほら、できたよ」
そう言われるが、ナシェルは目を開けたくなかった。
「ナシェル」
ナシェルの小さな両手をクロノスの大きな手が包みこんだ。じんわりと体温が広がる。その温かさに、なぜだかふいに泣きたくなった。
「…………」
ゆっくりと目を開くと、クロノスとウリアは目を丸くして顔を見合わせた。
「ナシェル……君、その瞳の色は……」
禍々しい血の色をした瞳。
ナシェルが悪魔の子と呼ばれる由縁。人々から蔑まれた原因。
それをクロノスとウリアは見つめ、そしてきっと嫌悪のこもった顔で軽蔑の眼差しを向けるに違いない。──そう思っていたのに、二人はにこやかに微笑んだ。
「素晴らしい紅じゃないか、ナシェル」
予想外の言葉を、ナシェルはうまく受け取ることができなくて、不安もまだ残っていて、おずおずと尋ねる。
「……ほ、本当に?」
「とても綺麗な色だよ。隠しておくなんてもったいない」
「旦那様のおっしゃる通りですよ、お嬢様」
そう言われ、緊張を解くと、ぽろりと一滴涙が零れた。瞳と同じ紅い血の色をした涙だったが、二人は気にする様子もなく、クロノスが涙を拭ってくれる。
「まあ、旦那様。昨日は砂だけはらってお嬢様を寝かせましたね? お顔に砂がついてますし、髪の毛も艶やかではありませんわ」
ウリアが腰に手をあてて口を尖らす。
「お嬢様、女性の身だしなみは常に整ってなくてはなりませんわ。今すぐ湯あみいたしましょう!」
「えっ、でも、まだ朝食が……」
ナシェルの抗議も聞かず、ウリアは小さなナシェルの腕を掴んでずりずりと引きずっていく。
「ウリア、せめて朝食を食べた後でもいいじゃないか」
「問答無用! 女は身だしなみ一番ですよっ」
やがて浴室の方から聞こえるナシェルとウリアの会話を聞きながら、くすりとクロノスは小さく笑う。
それからふと、真剣な眼差しで床に落ちたナシェルの髪を一房掴み、握りしめた。
「アルフ……」
そんな彼の呟きは、空気へと寂しく溶けていった。
***
長い黒髪は艶を持ち、短くなった前髪は眉の上へ切りそろえられ、紅い瞳が神秘的に輝く。
白い真珠のきめ細かい肌に、ほんのりと色づいた唇。
そんな完璧な容姿を持つ少女を目の前に、クロノスは嬉しそうに笑った。
「さすがは私の娘だ。将来有望だね」
浴室から戻ってきたナシェルは朝食を再開し、クロノスの賛辞を恥ずかしそうに眉を寄せて聞いている。
そうしてナシェルが朝食を食べ終えた頃を見計らって、クロノスは立ち上がった。
「さて、私は君に教養を与えると言ったね。だからこれから私がありとあらゆる技術を君に教えよう」
クロノスの言葉に、ナシェルも立ち上がる。今からなにを教わるのか、好奇心がその紅い瞳に宿っている。
「まずは今、君がどこにいるかを知ってもらうよ。一緒においで」
クロノスが外に通じる扉へ向かうと、ナシェルもそれについて行く。
右手をドアノブに手をかざすと、カチャリと鍵が開く音が聞こえた。
「えっ?」
思わずナシェルは声をあげた。
開かなかったはずの扉が、手も触れずに簡単に開いたのだから無理もないだろう。
「これは鍵がないドアでね。こうやっていつも施錠したり、開けたりするんだよ」
ふうん、と一応返事を返しているが、ちゃんと聞いているか心配な返事だ。
それでもクロノスはとりあえず鍵が外されたドアを開けた。
「ここが君が今いる場所だよ」
クロノスによって開かれた扉の外の光景に、ナシェルは目を見開く。
なんて綺麗な所だろう。
若緑の野原に、生い茂る森。鳥がさえずり、花が咲き乱れている。どこか神秘的な光景に思わず息を飲むと、クロノスが笑った。
「ここは神の砦と呼ばれる場所だよ」
「神の砦?」
聞いた事がない地名に、ナシェルは首を傾げた。
「私のいた場所はどっちにある?」
そう尋ねると、クロノスは森を指差した。
「あっち?」
質問を重ねると、クロノスはナシェルの腕を引いて森へと歩く。
生い茂る木々を避けながら、森の中枢までやってくると、綺麗な泉が現れた。
「君がいた世界はこの下だよ」
「世界? 下?」
何を言っているんだろう。泉の下は何もない。
そんな事を思っていると、クロノスは膝をついて腰を下げ、ナシェルと同じ目線になる。
「ここはね、君のいた世界じゃないんだ」
「え?」
言われた言葉が理解できず、ナシェルは首を傾げる。
世界。世界とは何の事だろう。
「ここはね、魔界なんだよ」
「……えぇっ?」
ようやくなんとなくではあるが、意味を理解して思わず辺りをきょろきょろと見回す。
魔界といえば、悪魔や魔物が住む──空想の世界、のはず。
それだというのに、目の前に立っているクロノスも悪魔ではないし、と考えて気づく。
彼は最初から「神」だと言っていたではないか。