闇色に駆ける 三
その発言に、ナシェルは持っていたパンを危うく落としそうになる。
「……昨日の夜から?」
信じられない、という表情のナシェルを見て、男は首を傾げた。
「大事な娘候補に何かあったら困るじゃないか。……まあ、君の場合必要なかったみたいだけどさ」
ナシェルが一晩中起きて自分の周りの見張りをしていた事を言っているのだろう。
「その通りだ。私に助けなんていらない」
「でも力になりたい」
男はナシェルの隣に移動し、しゃがんで後ろの壁に凭れかかる。
「必要ない」
きっぱりと目を合わせて拒絶してくるナシェルに男は苦笑気味にため息をもらした。
「君は強情だね」
言いながら頭を撫でる男の手を叩き落とす。しかしそれを猫が戯れたくらいにか思っていないのだろう。彼は気にせず話を始める。
「眠たいだろう? 少し寝なさい」
優しい言葉にたじろぐ。人に優しくされる事に慣れていないせいで、こうした時にどういう反応をすればいいのかナシェルにはわからない。
「おやすみナシェル。見張りは私がしよう」
「…………」
そんな事言われて本当に寝る馬鹿など、どこにいるのか。呆れて胡乱な目を向けると、苦笑を返された。
「信用できない? でも食料は毒なんて入ってなかったろう?」
言われてちらりと紙袋を見る。それからもう一度男を見て、大きなため息を吐いた。
その様子で察した男は柔らかな笑みをナシェルに向ける。
「おやすみ」
返事を返さずそのまま睡魔に逆らわず目を閉じようとしているとまた頭を撫でられた。
「さわるな」
一睨みして、ようやく眠りにつく。毒が入っていなかったからと言って眠るなど普段ではあり得なかったが、なぜかこの男が自分を傷つけるとは思えなかった。
自称でも神だからだろうか。
***
人々が行き交う市場の路地裏。
ナシェルは久しぶりに穏やかな夢を見た。
少し肌寒い。 思わずした自分の身震いに淡い夢から起き上がる。 辺りはもう真っ暗で、どうやら一日中寝てしまったらしい。
「寝すぎた……」
まだ覚醒しきれていない頭をなんとか動かす。寝る前までそこにいた男はもういなかった。
「……見張ると言ったのは嘘か?」
地面に座りこんだままもう一度よく確認するが、やはり姿が見えない。
何だか落ち着かない。 久しぶりに穏やかな気分になったのに、それが一気に消え去った。──原因の一つは寝起きのせいもあるだろうが。
「ナシェル、起きたんだね」
ふと探していた男の声が聞こえ、闇の中、目を凝らす。
なんだ。いなくなったわけでも嘘をついていたわけでもなかったようだ。
しかし、男は申し訳なさそうに顔を曇らす。
「ごめんね。神サマの仕事が山積みだからちょっと行かなきゃいけない」
まだ自分を神だと言っているのか。 ナシェルは呆れながらも頷く。
「よく眠れた。礼を言う」
「そういうのはありがとうで十分だよ」
自分の硬い口調に、笑いながら助言を言う男はじっとこちらを見ている。
つまり、ありがとうと言えと?
そう思うと思わず睨んでしまう。それから躊躇いながらも口を開いた。
──照れるな。これは決して恥ずかしがる事ではない。ただの礼。ただの言葉にすぎない。
自分に言い聞かせる様に心の中で呟いた後、思いきり自称・神を睨みつけた。
「あ、ありがとう」
酷く不機嫌な顔になっているに違いなかった。自分は照れてしまう時、思わず眉を寄せる。その癖が出てしまっている事は男の表情から容易に察せる。
しかし、驚いた顔をしている彼は、やがて小さく吹き出た。
「何それ、照れてるの?」
「照れてない」
またもや眉間に力が入ってしまう。
──不本意だ。
男は暫く笑った後、こちらに近づいて乱暴に頭を撫で回した。
「可愛いね」
「どこがだ!」
反射的に吼えた。
「というか、頭をぐしゃぐしゃするなッ! 乱れる!」
怒鳴り付けると男はまだ収まらないのか、笑いながら手を離した。
「ごめんごめん。ちょっと可愛くて」
「そういう事言うのもやめろ! 鳥肌が立つ!」
わかったわかった、と半ば流すように言い、男は踵を返して歩き出した。
「じゃあ行くね。困った時はいつでも呼ぶんだよ」
「誰が呼ぶか!」
意地になって叫ぶが、砂を含んだ強い風がザッと吹き、それと共に男の姿がかき消された。
肌寒い風が肌を掠めていく。
暫し男が消えた方を眺め、訳のわからない虚しさを感じていると、背後から足音が聞こえ、振り返った。
「いたぞ!」
走ってくる男達を見て、ナシェルはたじろいだ。
──奴隷商の人間だ!
すぐに走り出すが、反対側からも男達が現れ、完全に逃げ道がなくなった。男達はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「観念しろ」
にやついた顔でじりじりと歩み寄る男達はまるで獲物を狙う獣の様だ。
「はっ。下郎が」
嘲りの言葉を吐き捨てた後、一人の男の懐へ飛び込む。その男の胸板を押し退けると同時に背後へ飛ぶ。その勢いを利用して腰にさげた男の剣を鞘から引き抜いた。
「まずい!」
誰かが叫ぶ。
だが、誰が言ったなんてどうでもいい。重要なのは相手に呼吸する暇を与えず斬り込む事だ。
自分の経験に伴い、すぐに行動した。剣を奪いとった男にはもう戦力はない。それよりも、まだ武器を持つ輩から倒さなくてはならないと判断したナシェルはその隣に立つ男の喉元を躊躇なく斬りつける。
それから呼吸する暇もなくその背後に立つ男の腹に剣を突き刺し、一気に引き抜いた。