闇色に駆ける 二
「ま、まてぇえええ!」
必死に後を追ってくるが、若いと言うのは有利なもので、早くに息があがる男達に比べ、少女の足取りは軽快だった。
顔にかかる自分の黒髪を手で払い、路地を駆け、小道に入る。それから壁を曲がり、壁に身を寄せて様子を伺った。
辺りはしんと静かで、足音も気配も感じない。
追っ手を上手く撒けたのだろう。
ほっとしてそのまま後ろへ身を引き、どん、と誰かにぶつかった。
──な……っ!
足音も気配も感じなかったはず。
少女は慌てて距離を取り、振り返る。 そこには灰色の長髪を持ち、全身を黒で包む男が立っていた。 年寄りかと思ったが、それにしては顔立ちが若々しい。
「君がナシェルだね?」
久しぶりに聞いた自分の名前に、少女は目をふせた。しかし、それも一瞬の事で、すぐに目の前の男を睨み付ける。
「……なぜ私の名前を知っている」
「教えてもらったんだよ」
要領を得ない答え方に少女──ナシェルは眉を寄せた。
「私に何か用か。生憎、貴様と遊んでいられる程暇じゃない」
およそ少女らしからぬ物言いに、男は悲しげに顔を歪めた。
「君は……、随分と荒んでしまったようだね」
明らかな同情の目を向けられ、ナシェルは身動ぎする。同情なんてものは不必要だ。 ナシェルは男を強く睨み付けた。
「余計な世話だ。それよりも用件を言え。私に何の用だ」
「今日はね、君にちょっとした提案があるんだ」
「提案……?」
「君、私の娘にならない?」
突然何を言い出すのか。ふざけているのか?
ナシェルは本気でそう疑った。会って間もない赤の他人に向かって娘になれなどと、普通では考えられない。
「あのね……、別に不審者とか変質者じゃないからね?」
「じゃあ何だ」
「神サマだよ」
──この男、頭がイカれてるんじゃないのか?
一気に冷えた目線を送るナシェルに、自称・神は軽くため息をついた。
「……いや、あのね? 別に頭とかおかしくないからね? ネジとかゆるんでないからね?」
必死に言い張る男を、ナシェルは冷めた目で見上げる。
「神などとふざけた事を。信じられんな」
冷えきったナシェルの言葉に、自称・神は顎に手をあて、神妙な顔をして唸る。
「おかしいなあ。この時代、神の存在はかなり大きかったと思うけど。神を見て英雄になった人間もいるし……」
「何をごちゃごちゃと……。訳がわからん」
かなり頭がイカれていると判断したナシェルは、後ずさって距離を広げる。
「どう言ったら信じてくれる?」
「知るか」
「……冷たいね。娘候補にそんな事を言われたら泣けてきそう」
なんとも掴みにくい男だ。 やはり神と名乗るわりにはネジが二本くらいゆるんでいるのかもしれない。
警戒しながら距離を取ると、男はふと真剣な顔をしてみせる。
「私は、君のお父さんを知ってるよ」
「……父を?」
「アルフ。それがお父さんの名前だろう?」
意外な所で聞きたくもない名前を聞き、ナシェルは唇を噛んだ。
父から直接暴行を受けた事はないが、母親の暴挙を見逃していた。それだけでも最低な男だと思えるし、父親らしい事をしてもらった事もない。いつも余所余所しく、他人のようだった。
「……書類上の父親の名は確かにアルフだった」
「冷めた言い方だね。仮にも父親じゃないか」
「娘があざを作っているのを黙って見ているのが父親?」
顔が強張っている。自分でもわかっていたが、少しずつ底から膨れあがってくる怒りは抑えられない。
「そんな男を父親なんて呼べるか」
嘲りを含んだ言い方をすると、男は黙りこみ、やがて無言で紙袋をナシェルに差し出した。ナシェルは首を傾げながらも紙袋を受け取る。大して重くはない。
「これは、何だ?」
「…………じゃあまたね、ナシェル」
ナシェルの問いには答えず、男は柔らかな笑みを彼女に向けて、踵を返した。
風が吹き、彼の衣装が揺れ、そして一瞬で姿が闇に消えた。
突如男の姿が消え、ナシェルは目を見開き、それから紙袋の中を見る。 中身は数日分の食料だった。
***
市場の店開きでようやく人々の声で賑わってきた時刻、路地裏で膝を抱えるナシェルはゆっくりと視界を動かす。
昨夜から今にかけて見張りをしていたナシェルの顔色はすこぶる悪い。
しかし、悠長に寝ていては奴隷商に見つかった時、簡単に捕まってしまう。 目を擦り、昨夜もらった紙袋の中からパンを取り出し、かじりつく。
柔らかい、もちもちとしたパンだった。まだ家にいた頃もこんなパン食べた事はない。
「美味しい?」
ふと頭上から声が聞こえ、顔をあげれば昨夜の自称・神がいた。
「いつからいたんだ」
「昨夜からだよ」