神と名乗る男 六
「そう。癒しだよ」
むむむ、とナシェルは唸る。癒しを与えるのは難しい。癒しと言うものを体感した事がないからナシェルには具体的に何をすればいいのか良くわからない。
なにをすれば人が──神が?──癒されるのか見当もつかない。
「君にとっては難題だろうね。だからこそ対価に相応しい」
「……ど、努力する」
何をしたらいいか思案しだすナシェルに微笑み、クロノスは自分の腰に帯刀した小さめの短刀を鞘から抜く。ぎらりとほの暗く光るそれはとても切れ味が良さそうだ。
「私の血と君の血。これを差し出せば契約は完了だよ」
そう言って、クロノスは自分の指先にナイフを当て、やがてぷくっとできた血の玉をナシェルに見せた。
「さあ、君も」
そう言われ、すぐにナシェルはクロノスのナイフで自分の指先に血の玉を作る。
「私は居場所と技術を君に与える。君は私に癒しと自分を与える」
「自分?」
「私の娘になるという事だよ」
そうクロノスは言い、反対側の手を地面にかざすと紫色に光る大きな魔方陣が足下に現れた。風がそこからか吹き、ナシェルの洗い立ての黒髪が舞い上がる。
「さあ、ここに血を垂らして」
クロノスが魔方陣に血を落とすと、ナシェルも血を垂らした。魔方陣が一瞬白く輝き──そして消えた。
あっという間の出来事に思考が追いつけないナシェルの頭をクロノスは撫で、微笑む。
「契約完了。君が私の娘であり、癒しを与え続ける限り契約は継続するからね」
ナシェルはひとまず頷いた。色々な事に頭が付いていけていないが、ひとまず流れだけ覚え、クロノスとの関係を理解するだけで良いだろう。
クロノスは自分の指の血を大雑把に服で拭い、ナシェルに向けて手を差し伸べた。
「痛くなかったかい? すぐに傷を治してあげるから指を……」
貸してごらん、と言うはずだったのだろうクロノスの言葉は途中で消えた。
傷つけたはずのナシェルの指が、まるで何もなかったかの様にすっかり傷が消えていたからだろう。
「傷は昔からよく治る。これも悪魔の力か?」
「悪魔の種類によって回復の速さは違うけどね。君はとても速い方だよ」
やはりこの回復力も悪魔の力だったようだ。確かに大抵の怪我はすぐ治っていた。それが余計に周りに気味悪がられたけども。
ふと、クロノスが耳に手を当てて澄ました後、顔を上げた。
「ルーアンが来たね」
そう言われ、小さな黒猫を探すが、どこにも見当たらない。
「森を出ようかナシェル」
差しのべたクロノスの手を握り、半分引っ張られる形で森を出た。
すると、森を出てすぐの家の前に黒く大きいドラゴンがいた。ドラゴンは紅い大きな瞳でこちらを見ていた。
悠然と構えるドラゴンの気迫に押されてびくりと肩を揺らすナシェルに、クロノスは微笑んだ。
「怖がらなくていいんだよ、ナシェル。ルーアンだよ」
「ルーアン……?」
あの小さな猫と目の前のドラゴンが同じ生き物?
ナシェルはおずおずとドラゴンを見つめた。
そういえば、あの小さな猫の瞳は自分と同じ紅い色をしていた。
「……ルーアン?」
名前を呼ぶと、大きなドラゴンが親しげに近寄ってきた。やはりルーアンの様だ。
「ルーアンは外に出るとドラゴンになるアントワイスという種類なんだよ」
ぐるる、と鼻を鳴らし、ルーアンは頭をクロノスな擦り付けた。甘えているのだろうが、体が大きいせいか、クロノスがずりずりと押されている。
「ルーアン、ちょっと少しは自分の体の大きさを……っ」
クロノスは抗議の声をあげ、やがて耐えきれずに地面に尻餅をつくと、ルーアンは満足した様にまた鳴いた。
「全く。……そうだね。次は服従を教えよう。多分、君ならできるはずだよ」
ルーアンのせいで疲れたのか、ぐったりとした様子でクロノスは言った。
「服従?」
「もう一度血を出して」
言われた通りに血の玉を作ると、ルーアンが少し苦しそうな鳴き声を出した。
「ごらん。苦しそうだろう? 君の血にはこんな力があるんだ」
クロノスはそう言って立ち上がる。
「この血に服従せよ。これを復唱して」
「こ、この血に……」
呪文だなんて恥ずかしくて、ついつい小声になってしまったナシェルにクロノスは口を開いた。
「恥ずかしがらずに、真面目に」
「こ、この血に服従せよっ!」
勢いにまかせて叫ぶと、すぐ目の前に半透明で異様な時計が現れた。
かちかちかち、と速いスピードでぐるりと針が回り、強い光を放った。
「うわ……っ」
眩しくて一瞬目を閉じ、次に目を開けると時計は消えて、おまけにルーアンも元の調子は戻ってこちらを見下ろしていた。
「今のが服従。これでルーアンは君の僕しもべだ。好きに使うといい」
「くれるの……?」
ルーアンとクロノスを交互に見ながら尋ねると、クロノスは首を振った。
「私があげたんじゃない。君が自分の力でルーアンを服従させたんだよ。じゃないと相応のものを君から貰わなくちゃならないからね」
本当に神は面倒だ、とクロノスは愚痴を言う。
「服従……」
「さて、おさらいだよ。血と血で相応の対価を払って欲しいものを得るのが契約。自らの血で従わせて得るのが服従。理解できた?」
ナシェルは頷く。説明は難しいが、意外と簡単だ。慣れてしまえば、きっともっと使いこなせるようになるだろう。
「賢い子だね。契約と服従。これさえ使えれば大抵は凌げる。服従は神には効かないけれど魔力を持つ者には必ず使えるよ。小さな苦痛程度だからわかりにくい場合が多いけど君くらい魔力が強ければ大抵向こうが隠しててもさっきのを唱えれば大丈夫だと思うよ」
そんな説明の後、さっさと家に向かって歩くクロノスに、ナシェルも置いていかれない様について行く。
「今日はここまでにしようね」
優しく言い、家のドアを開けて中にいるウリアに呼びかけた。
「ウリア、お腹が減ったよ。おやつはまだかい?」
暖かい日差しを背に感じ、ナシェルは目を細めて振り返って空を見上げた。
ここは異界の地。
その世界で、新たな道へと進もうとしている。──導く父親と共に。
次から大きく成長します。